首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)

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首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)
鎌田橋という歩行者専用の橋のたもとに
河原子地蔵堂というのがひっそりとある。
首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)2
これが江戸時代鎌田河原御仕置場と呼ばれた処刑場跡である。
地元では首切り場とか首切り地蔵尊と呼ばれている。
首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)3
首切り地蔵
今から260年程前の元文3年(1738)9月18日
辰の上刻(午前8時)を期し藩主内藤侯の永年に亘る苛斂誅求に
耐えかねた領民の磐城4郡181ヶ村の百姓衆2万人が
政令に反して18ヵ条の要求を掲げて総決起し
平城下目指して怒涛のように押し寄せ一挙に城下町を
占拠し藩当局を震駭させ一揆の前に領主権力を
完全に屈服させ要求の大半をのまざるを得ない状態とした。
然し農民大衆は結集したとはいえ鳥合の衆であり、
さしもの大一揆も数日にして指導者に一任されたので
村々に離散するに至り一揆の代表者は後日捕えられ
投獄されて翌年8月23日鎌田河原で斬首された。
芝原村 長治兵衛 中好間村 理四郎
中神谷村 武左衛門 八茎村 五三郎
藤間村 理右衛門 荒田目村 伊三郎
平久保村 予惣治 上小川村 与八
一揆終了後内藤侯は譜代大名であったが幕府から
その責任を問われ日向国(宮崎県)延岡に移封になった。
一揆の指導者は何れも若く名主も多く地域の中心的な
人達であった。
後年領民一同協議して御仕置になった鎌田川の河原に
地蔵尊を建立し往来の百姓達が線香を供えて供養し
義民の諸霊を慰めたが為政者の弾圧もあり供養も
たち切れることもあった
志賀伝吉著 元文義民伝より
首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)4
お堂の扉を開けて首切り地蔵を拝む。
首切り地蔵(鎌田河原御仕置場跡)5
斬首が行われた鎌田川河原。



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