吉良神社(七人ミサキ)

吉良神社(七人ミサキ) 心霊スポット

吉良神社(七人ミサキ)1
吉良神社
御祭神 吉良左京進秦親實公
きらきょうのしんはだのちかざねこう
境内社
七社明神
御祭神
勝賀野次郎兵衛實信
城ノ内太守坊
小島甚四郎
宗安寺眞西堂
永吉飛騨守宗廣
吉良彦太夫
日和田与三右衛門
(七人みさき)
この吉良神社は七人組の怨霊、
七人ミサキ(七人霊)を祀った神社である。
吉良神社(七人ミサキ)2
変わった形のお手水場ですね。
七人みさきとは、七人組の怨霊で
1人を憑き殺すと、1人が成仏し、憑き殺された1人が加わって
永遠に7人組が変わらないという。
吉良神社(七人ミサキ)3
吉良神社本殿が見えてきました。
「吉良大明神伝歴」には、
長宗我部相続に関し命を失いたるもの多数あり人々世の中を恐る。
折しも白衣の武士七人連れにて夜徘徊す。
是れに出会いたる者は即厄又は大病と成ると。
その他諸所に不思議なる事あり、夜は出づる者なし。
噂に聞くに久武内蔵助は当時長浜に住居せり。
二男あり。次男6歳は天才にして美童たり近人の愛の的たり。
或る夕方門口に遊ぶ、老婆来たり猫撫声をもって抱き上ぐれば、
ヒセリ声して不省となる。
母は飛び出て水よ薬よと介抱すれば息吹き返したるも、
その四ツ半ば頃熱病にて死す。
されば其の老婆何所の誰か全く判らず。
両親の嘆きは一方ならず。
其の37日の忌日に長男発狂し、仏間に入り南無阿弥陀仏を唱えるもの也。
それより又37日の忌日に長男仏間に苦しむ。
見れば腹一文字に掻き切り虫の息、
わけを問えば上使二人来たり詰め腹を切らせたりとて間もなく死す。
母は狂気の如くなり49日の忌日に死せり。
此の他に噂話しは次より次と津々浦々迄伝へられる。
時の人これを七人霊と称す。
「長宗我部元親伝」には或夜更け、仁淀川の渡舟を西岸から
呼ぶ声がしたので渡守が舟を漕ぎ寄せて見れば一個の人影もない。
空耳かと漕ぎもどさうとする舟へ、どやどや6,7人の人数が
乗込んだが人影は見えぬ。
魂身に添はぬ恐怖の渡守が目に見えぬ人間を乗せて東岸へ漕着けると、
再びどやどやと陸地へ上る響がする。
「吾れは左京進の幽霊なり、生死の恨み晴らさんとて一党引具し
大高坂へ急ぐなり」という声が中宇の闇から落ちてくる。
久武内蔵助の子が妖婆にとり殺されたのはその翌夜である。
勝賀野の死んだ蓮池城下では日々を戦慄せしめ
街上には犬の子一匹も見えない。
大高坂の城内にも怪しい物の怪が夜毎に出没し元親を悩ますといふ噂が立ち、
移転怱々の新郡城へ、いやが上にも暗い影を投げた。
百萬の敵にも恐れぬ元親でも国分寺に衆僧を集めて「七人みさき」の供養をした。
結願の日親見一党の位牌が祭壇の上で動きだして中空へ舞い上がり、
満座の僧侶驚倒したという怪談までが書残されて居る。
天正16年10月4日(1588年)と御歳26歳の若さであった。
元親遂に老臣の進言を納れ吾川郡木塚に祠を建て祀ったのが
今の吉良明神である。
吉良神社(七人ミサキ)4
吉良神社。
古いですがよく手入れされています。
長宗我部元親の跡継ぎでの争いがあり、
切腹を命ぜられた家臣が七人霊(しちにんみさき)と
なって祟ったという。
祟りを恐れて祀ったのがこの神社である。
吉良神社(七人ミサキ)5
境内にある 七社明神
御祭神
勝賀野次郎兵衛實信
城ノ内太守坊
小島甚四郎
宗安寺眞西堂
永吉飛騨守宗廣
吉良彦太夫
日和田与三右衛門


高知県心霊スポット

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