不動山キリシタン史跡

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不動山キリシタン史跡
不動山キリシタン史跡
不動山と呼ばれる場所は江戸時代、
キリシタンの取り締まりが厳しく行われた場所である。
不動山キリシタン史跡2
大刀洗川史跡
キリシタン弾圧において宗徒を斬った太刀を洗ったことからこの名が
残ったと云う。川口に沿った集落を館や川内と呼ぶが大刀洗川内から
とった地名とも云われる。また、この大刀洗川の川上に
垣内史跡があり、垣をめぐらしそこに宗徒を収容したところとも
伝えられている。
時代 天正15年(1587)豊臣秀吉 禁教令
   慶長17年(1612)徳川幕府 禁教令
   慶長19年(1614)不動山大舟の伝道所破壊
   元和 7年(1621)神父カミロ・コンスタンツォ不動山に入る
   元和 8年(1622)神父カミロ・コンスタンツォ平戸にて殉教
   寛永11年(1634)不動山の大村四郎兵衛一家ら5人火刑にされる
不動山キリシタン史跡3
そばを流れているこの川が大刀洗川。
ここで血だらけの刀を洗ったのでしょうか…。
不動山キリシタン史跡4
さらに上流に行くと今度は垣内遺跡があります。
不動山キリシタン史跡5
不動山に於ける切支丹伝説
当地で切支丹が盛んであったのは、1600年前後から
イタリアの宣教師カミロ・コスタンゾが不動山に潜行し(1621年)
ひそかに布教していた1630年頃までである。
当時は、既に迫害がひどくなっていた時であるが
不動山伝道所(1614年破壊)には、一時はバテレン(神父)2人と
イルマン(教師)2人が居て多数の人々に洗礼をしたといわれている
切支丹史跡(垣内)
切支丹信徒を斬った血太刀を洗った川を大刀洗川と云うが、
その川の上流を「垣内」とよんでいる。
ここには、もと垣をめぐらした簡単な牢獄のような施設があり、そこに
増えた信徒をつないでいたと云う。
「垣の内」と呼んでいたのが、「垣内」にかわった
ものと思われる
この中につながれていた信者たちが安らぎを求めて神に祈る姿がしのばれる。
不動山キリシタン史跡6
少し離れた場所にさらにお堂がある。
異教徒塚跡である。
不動山キリシタン史跡7
切支丹が嬉野にはいった年代は不詳だが、西暦1500年の
終り頃ではないかと思われる。
1600年頃が不動山大野原に切支丹が盛んであった時代であろうか。
この天神様の所在地は外道宗跡と云われている。
その頃、切支丹の教会と信者の墓地があったらしいという。
古老たちの話によるとこの祠堂のそばの土地を掘っていたら、
釘を打ち込んだ頭蓋骨が多数発見されたと云う。
これは当時異教徒と呼ばれた切支丹たちが埋葬に際し頭蓋骨
を釘で貫いたという口碑があるらしく、この物語は恐怖を
もって、永く語りつがれていたことを示している。
江戸時代、キリシタンは殺してもよみがえると信じられていました。
首をはねた後遠くに埋めたり、死体をバラバラにして捨てたりなど
釘を打ち込んだのはおそらく生き返るのを恐れたためだと
考えられる。
不動山キリシタン史跡8
心月妙泉尼之碑
寛永のころキリシタン討伐が阿修羅のように
荒れ狂った時、赤ん坊を抱いて逃げようとした女人を切った。
ところが女人はいまわのきわに「ナマンダブツ
ナマンダ」と唱えながら・・・
念仏を耳にし仏教徒であったことがわかり
あまりの哀れさふびんさに、この碑を建立して
とむらってあげたと伝えられている。
とんでもない冤罪の歴史ですね…。
不動山キリシタン史跡9
馬場之子屋敷跡
不動山地区で切支丹が盛んであったのは西暦1607~
1650年頃と云われ、子屋敷という名称は「子供等の家」と云う意味で
そんなものがあったのだともいわれ、
また迫害をさけて逃げる切支丹が子捨谷(現在の幸助谷)
で棄てた子供たちを焼いた所だとも云われている。
ただ注意すべきことは明治半ば頃までは、旧暦11月25日に
ここに村人たちが集まり祝宴を開いていたということである。
そのとき彼らはこの地にあった石碑(もいし塚)に
「おみき」と「三角握飯」を供え
「モーシサマ」とか「モイシサマ」と呼んで拝んで
いたと云う。これは、ポルトガル語「モコス(子供の意)」が
訛ったものではないかと思われ、また祝宴の
期日は12月25日のクリスマスにあたる旧暦の
11月25日に催したものと思われる。
不動山キリシタン史跡10
さきほど少し触れましたがここが子捨谷
不動山キリシタン史跡11
子捨谷(幸助谷)
役人に追われ大舟部落から逃げ上ったキリシタン宗徒が、
いよいよ危うくなって連れていた子供たちを、
この谷底に投げ捨てたことにより、子捨谷と呼ばれると云う。
尚、この地区の上方、山本川内には野添という地名があり、
子捨谷で捨てた子を信徒がここから「のぞいた」からと
いわれている。(時代1607年頃~1650年頃)
不動山キリシタン史跡12
切支丹史跡(野添)
迫害を逃れるため、信者達は幸助谷(子捨谷)で
足手まといの子供を捨てたという。
しかし逃げながらも気になるのが親心で
『捨てた子どもたちはどうしているのだろう』と
立止って、ここからのぞいてみたといいその
『のぞく』が転じて『のぞえ』になったと
いわれている。
切支丹哀史からでた地名の一つである。

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