乙女峠

心霊スポット

キリシタン殉教史跡 乙女峠の由来
明治元年長崎浦上の隠れキリシタンは禁教令により、
3594名が捕えられ、その内、153名は
津和野へ流刑となり、長崎浦上から連行され、
ここ光琳寺の境内にあった古い納屋に収容されました。
彼等は戦国時代のキリシタンの子孫で、
江戸時代の250年間、厳しい弾圧の中、隠れて信仰を
守り通していました。
この歴史は世界のカトリック史上、例をみない事で、
歴代のローマ教皇を初め、全世界の人々から
賞賛を受けております。
ここ津和野へ連行された彼等は5年の間、
信仰を改めるようにと、ある者は連日
三尺牢に入れられ、ある時は真冬、氷が張りつめた
池に何度も入れられ、筆舌に尽くせぬ拷問を受けました。
そして信仰を守り通したキリシタンの中で。
残酷な拷問のために37名が殉教の死を遂げました。
殉教者となった安太郎は、拷問で連日三尺牢に
入れられていた時、聖母マリアが毎晩のように
安太郎の前にあらわれになり、やさしくお話をされ、
慰められたそうです。そして安太郎は
三尺牢の中で、聖なる殉教を遂げました。
乙女峠というこの土地の名称は昔からあったものですが、
聖母マリアが安太郎に出現された事で、
真にふさわしい名称になりました。
明治6年、250年以上続いたキリシタン禁教令が
撤廃され、厳しい拷問を受けながらも信仰を守り通した
キリシタン達は、長崎浦上へ帰りました。
乙女峠1
駐車場から上画像のような道を歩いていくと、
乙女峠がある。
乙女峠2
少し開けた場所には建物や石碑、オブジェが並ぶ。
乙女峠3
キリシタン殉教史跡
乙女峠
乙女峠4
乙女峠のマリア聖堂
乙女峠5
内部。完全に教会ですね。
乙女峠6
三尺牢跡
聖母出現の場
殉教者安太郎が高山仙右衛門と守山甚三郎に伝えた言葉
「私は此三尺牢の内にて淋しゅうはござりません。
九つ(夜12時)より先になりますれば青い着物に
そして青いきれをかぶられたサンタマリア様の御影の
顔立ちに似ておりますご婦人がお現れくださる
そのお方がものがたりをいたしてくださる故。
少しも淋しゅうはござりません。
けれども、このことは私の生きておるまでは
人に話してはくださるな」
明治2年1月7日より19日までの間
聖母マリアが殉教者安太郎に毎晩出現されました。
乙女峠7
キリシタン水責めの池
氷点下が続く真冬、池にはびっしりと
氷が張りつめ、その中に裸にされた
キリシタンが何度も入れられ、生死をさまようような
残酷な拷問が連日行われていました。
高木仙衛門と守山甚三郎の覚言の中で、
この氷責の拷問が心身共にもっとも過酷だったと記されています。
乙女峠8
殉教百年記念碑
乙女峠9
受難と復活
イエス・キリストの道を生きること
わたしは世の終わりまで
いつもあなたがたと共にいる
十字架には赤い色がしみこんでいます。
それはイエス・キリストが世界の全ての人々を
救うために十字架上で想像を絶する苦しみを
受けながら流された尊いおん血を表わしています。
十字架には3本の鉄の釘だけが残っています。
それはイエス・キリストが弟子達に言われた通り
私たちのために復活されたことを表わしています。
十字架にはガラスがちりばめてあります。
ガラスを見るとそれは鏡となって見ると人の顔が映り
イエス・キリストがいつも私たちと共におられることを
表わしています
高木仙衛門ノ玄孫 彫刻家 高木基美子 作
そしてここから殉教者の墓がある千人塚まで
山道を600m歩きます…結構過酷です。
乙女峠10
歩く事15分ほど。山道は道が荒れてて歩きにくいです…。
千人塚に着きました。
乙女峠11
千人塚のお堂
乙女峠12
中には四体の仏像が安置されています。
乙女峠13
南無地蔵大菩薩
おそらく千人塚は乙女峠の拷問で亡くなった
キリシタンを哀れんで地元の方が建立した
仏教の供養碑なのでしょう。
乙女峠14
この石碑がすぐ隣にありました。
こちらはキリスト教徒が建立した供養碑
為義而被害者乃真福と石碑には彫ってありました。
この敷地は至福の園という名前がついていました。

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