小塚原処刑場跡

心霊スポット

小塚原処刑場跡
江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と
千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口60間余(約180メートル)、
奥行30間余(約54メートル)で明治のはじめに
刑場が廃止されるまでに、磔(はりつけ)・
斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため
寛保元年(1741)に造立されたものである。
小塚原処刑場跡2
此の地付近は徳川幕府初期頃より重罪者の刑場に宛てた所で
昔は「浅草のはりつけ場」と称せられていた。
刑場として開創されてから二百余年の間埋葬された屍体は
実に二十余万と称せられるが大部分は重罪者の屍体であった。
寛文七年(1667年)刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。
これが現在の史跡小塚原回向院である。
幕法よりすれば憂国の志士も盗賊放火の罪人の等しく幕府の大罪人であって
これらの大罪人が伝馬町の牢獄なり、小塚原の刑場に於いて仕置きとなる時は
その遺体は非人頭に下げられ、この境内に取り捨てとなった。
故に埋葬とは名のみであって土中に浅く穴を掘り
その上にうすく土をかけおく丈けであったから雨水に洗われて
手肢の土中より露れ出ること等決して珍しくなく
特に暑中の頃は臭気粉々として鼻をつき野犬やいたちなどが
死体を喰い残月に嘯く様はこの世ながらの修羅場であった
文政五年(1822年)南部家の臣であった
相馬大作、関良助の屍を埋めてより国事犯の刑死者の死体を
ここに埋めることになり、即ち安政の大獄(1850年)以降、
桜田門事件、坂下門事件の橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、
其の他憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
最近では二・二六事件の磯部浅一の墓もある。
小塚原の観臓記念碑
明和八年三月四日(1773年)前野良澤、杉田玄白、
中川淳庵等此処にて刑死の解剖を見て発明する所あり
直ちにオランダ解剖図諸の翻訳に着手し4年の星霜をついやし
遂に解体新書5巻を大成した。
実にこれ我が国西洋医学の根源である。
小塚原処刑場跡3
首切地蔵尊(延命地蔵)
花崗岩の座像の大地蔵を俗に首切り地蔵と称して居る。
高さ一丈二尺(3.6m)寛保元年八月(1741年)
刑死者の菩提を弔うため建立された。
小塚原処刑場跡4
吉展地蔵尊
吉展ちゃん誘拐殺人事件
日本ではじめて報道協定が結ばれた事件
1963年(昭和38年)3月31日
台東区松が谷の入谷南公園へ一人で出かけた
吉展ちゃんが小原保に誘拐殺害された事件。
誘拐直後に絞殺され、円通寺の墓石の下に隠された。
その後50万円の身代金を要求し奪い取っている。
1967年小原保死刑確定
1971年死刑執行される。
吉展ちゃんは菩提寺の回向院で弔われ、
供養のために吉展地蔵尊が建立された。
2011年7月に再び小塚原を訪れました。
小塚原処刑場跡5
…ない。
首切り地蔵がない。
小塚原処刑場跡7
よくみると解体された首切地蔵がそばにありました。
小塚原処刑場跡6
どうやら3月11日の東日本大震災で首切地蔵は被災したようです。
関東大震災は乗り切ったのに…
修理費用が600万円かかるらしく、お寺では寄付を募っていました。
一口500円。私も少しながら寄付させていただきました。


小塚原処刑場跡8
2014年、再び訪れると…首切地蔵が直っていました。
小塚原処刑場跡9
区の補助金が出たようで予定より早く修復できたそうです。
小塚原処刑場跡10
ヒゲ題目と首切り地蔵。
ヒゲ題目碑の裏には馬頭観音もあります。
馬頭観音は昔、荷物運搬などに使われていた馬が、
道中で死ぬと道ばたに埋めていました。
その馬の供養の為に建立されたものです。

江戸の二大刑場(御仕置場)、小塚原処刑場
1651年に設置され、1873年に廃止されるまで
ここで処刑された受刑者は20万人を超えるという説もあるが、
ほとんどは小伝馬町の牢屋敷で斬首されて、
首を晒したり、遺体をここに打ち捨てたという。
受刑者の墓が多いのもそういう理由からである。
小塚原処刑場跡は俗説では骨が原(こつがはら)が
なまったものとあるが、実際にはこの辺りに
牛頭(ごず)天王社が祀られていて、
牛頭(ごず)が原と呼ばれていたのがなまったのだという。
牛頭天王社は「牛頭」文字が見当たらないが、
現在の日枝神社と思われる。
江戸時代の地図を見ると「刑罪場 御仕置場 回向院持」と記述がある。
付近にはどうやら刑死者を火葬したらしい火葬場もあったようだ。
ここで刑死した有名人は
桜田門外の変の関係志士
安政の大獄の関係志士
鼠小僧
夜嵐お絹

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