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空誉上人
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空誉上人

空誉上人
空誉上人の墓のある浄念寺

空誉上人についての伝説をまとめるとこうである。

空誉上人は播州明石の人にして仏道儒学と武術に優れた僧であった。
黒田如水が播州姫路より豊前中津に入国の際に追従してきた。
今の中津市の赤壁合元寺を再興し開基となる。
朝鮮出兵の際も黒田家に同行し、秘書役を勤めた。
黒田家が筑前を任されたときも空誉上人は同行した。
福岡城の橋口に「地福寺」を与えられ、寺領二百石を賜った。
慶長14年には如水公の父、心光院殿三満興宗円大居士の法要を同寺で行った。
黒田家の重臣で空誉上人と仲の良かった後藤又兵衛は
黒田長政との確執から黒田家を出て、慶長16年に大阪城に入城した。
この為、黒田家は江戸幕府に疑われることとなった。
慌てた黒田家は又兵衛と親友であった空誉上人を大阪城に派遣し、
福岡に戻るよう説得を続けたが、又兵衛はこれを断った。
福岡に戻った空誉上人を黒田忠之は激しく責め、処刑を決めた。
空誉上人は大阪方(豊臣方)と内通している、との噂を信じてしまったのだ。
空誉上人は地福寺で逮捕され、即日処刑場で釜に入れて背を割り、
熱く煮えたぎった鉛を流し込み、惨殺した。
空誉上人の死体はそのまま処刑場の墓場に捨てられた。
慶長16年8月6日のことであった。
浄念寺の開基で空誉上人と師弟関係にあった桂空舞上人は、
空誉上人の死体を浄念寺にて埋葬したいと願い出たが聞き入れられなかった。
それどころか地福寺の廃寺を決め、寺領二百石も没収された。
舜道上人は空誉上人の弟子にあたり、
黒田忠之に「死人に罪なし」と、地福寺と寺領を空誉上人の縁故者に戻し、
空誉上人の死体の埋葬を何度も願い出た。
しかしやはり聞き入れられず、意を決した舜道上人は弟子の舜沢を連れ、
深夜に処刑場の墓場に忍び込み、空誉上人の死体を背負って浄念寺に
持ち帰った。
黒田忠之もこの事は責めなかった。そして人々の記憶からも少しづつ消えはじめた。
空誉上人の墓は墓標もなく、ただそばに松の木が植えられた。
この松の木に鳥が止まるとたちまち死んで落ちてしまうため、
そここそ空誉上人の墓であると人々に信じられてきた。
いつしかこの松の木に願い事をすれば叶うと広まった。
後に小さな祠が建てられ、毎年8月5日〜8月6日まで祭典が行われ、
たくさんの人が訪れるようになった。

一方、処刑場は藩政も終りを迎え、葦の生えた沼となった。
空誉上人惨殺された場所だけは釜の形に葦が生えなかったという。
明治43年、九州沖縄八県連合共進会の会場として沼は埋立てられ、県庁が建てられた。
昭和3年になると官舎で「僧の霊を見た」、「夢枕に僧が立った」など数名が以上を訴え、
その年はおりしも空誉上人の刑死より348年回忌であった。
官舎の庭に祠が建てられ、大分中津市の合元寺より住職を呼び供養したという。
以来、県知事はこの祠にて毎年供養祭を行い、
県知事当選者は県庁に入る前にここに祈るような習慣があった。
亀井知事の頃、亀井県知事の奥様が祠を改築した。
空誉上人の供養は県庁移転まで続いたのだという。

参考:「福岡の昔話し(大村紫雲編 九州日報社)」

空誉上人2
浄念寺境内にある空誉堂


空誉上人4
ここが空誉上人の墓である。


空誉上人3
空誉堂内部。
供養塔が三つならんでいる。


空誉上人5
空誉上人の寺「地福寺」があった場所には現在「水鏡天神」がある。

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水鏡神社
●祭神 菅原道真公
●祭日 10月25日
この神社は一名水鏡天満宮という。
社伝によると延喜元年(901年)
菅原道真公が大宰権帥に左遷されて博多に
上陸の時、四十川(現在の中央区今泉)の
清流を水鏡として姿をうつされたので
後世その地に社殿を建てて水鏡天神、又容見(すがたみ)天神といった。
慶長17年(1612年)初代藩主黒田長政が現在の地に移築遷座し、
寛永18年(1614年)二大藩主黒田忠之が社殿を再建した
現在福岡市の中心「天神」の地名は当社に由来す。
社宝として、水鏡天神縁起、(大鳥居信祐筆)、鏡天神縁起、
渡唐天神像、その他がある。
尚当宮正面鳥居扁額は、元総理大臣広田弘毅が小学生の時揮亳したものである。

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空誉上人の怪談は狂言にされ、演じられました。
狂言の中での空誉上人は「女犯破戒僧」として演じられます。



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