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米一丸地蔵尊
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米一丸地蔵尊

米一丸地蔵尊
米一丸地蔵尊
福岡県東区箱崎の九州大学の近くに「米一丸」という地名の場所がある。
すぐそばの踏み切りは「米一丸踏切」と呼ばれている。
現在は踏み切りは高架工事により無くなっている。


米一丸の怨霊話はこちらをどうぞ


米一丸地蔵尊2
この搭は、文治年間(1185〜1189)に、
主である京の一条殿の計略により、
怨をのみ死んでいった 米一丸の供養搭である。
一条殿は、容色の美しい米一丸の妻を奪うため、
博多に入質している太刀を取返してくるように命じた。
米一丸は博多に下り、竹若勘九郎の家に寄宿し調べたが、
刀は既に人手に渡っていた。
その後、 米一丸は夜討にあい、
この地まで逃れてきたが、力尽きて自決した。

戦後、そばを通る鉄道で事故が相次ぎ、
米一丸の祟りだと地元の人は言い合ったのだという。

米一丸地蔵尊3
地蔵堂の裏には古い墓が並んでいる。
おそらく松原に点在していた石碑を集めたものと思われる。

米一丸地蔵尊4
お堂内部には米一丸とその従者、八千代姫とその侍女を祭っている。

かつて米一丸地蔵があった周辺は千代の松原と呼ばれ、
人通りも少なく不気味がられていた。

米一丸地蔵尊8
戦前の千代の松原の写真


さらに後日談となるが、米一丸の身を案じて
米一丸の母も福岡へ渡ってきていた。
米一丸の母は福岡入り後、箱崎に着く前に
本木村で米一丸の死を聞かされ、病に倒れます。

米一丸地蔵尊5

----観地山縁起----

観地山縁起
駿河の国木嶋長者とまでいわれた三河元直の一子
米一丸拾五歳にして木嶋政直と名乗り
元暦元年(1184年)若狭の国の長者の娘八千代姫を嫁に迎えた。
結婚披露のため京都一条殿に参殿した。
好事魔多しとか、垣間見た一条殿は姫に言いよったが
数度の文にも貞操堅固の姫の心を動かすことなわず
姫はそのまま国元に引揚げた。
このことが故で禍が木嶋一家にふりかかることになる。
文治元年(1185年)秋 米一丸は一条殿より命を受け、かつて九州柳川在住の折
手にした三池典太作の銘刀一振りを博多の人に遣わしてしたがその品取り返すため
然るべき代金受領し博多に出向くことになった。
一条殿の命とて一家涙の内に別れ文治二年正月、直好を頭とし総勢44名の家臣と共に国元を出発
翌三年正月博多は竹勘九郎方の浜屋敷に旅宿をとり件の刀の在処を詮議した。
土居町に奥某なる商人 心よからずかねてより一条殿の内密の命を受け
博多奉行とはかり金受け取りで次第米一丸の命を取ろうということで取引を延ばし
隙をみて米一丸を殺害しようとしたが主従共々力を併わせ一分の隙もなかった。
その後米一丸の博多逗留も二百日を過ぎかの銘刀の譲り受けもすんだところ
敵は四百人ばかりで浜の屋敷を攻めたてた。
主従力を併わせ千代松原に逃れ奮戦したが利あらず米一丸覚悟をきめ
七生此の恨み晴らさでおくものか、
さらばとて恨みを呑んで一文字に腹かき切って死す
こうして郎党の衆四十五人も共に主人の跡を追う
あとにひとり松風の音のみ悲しい調べを奏でていた。
米一丸の奥方八千代姫は夫の身を気遣い博多に至ったが
既に夫が殺されたのを聞きその地にて跡を追って自刃してしまった。
母親も吾子の成り行きを案じながらはるばる九州路に下られたが本木郷下がり藤にて
米一丸の悲運を聞き病に倒れ程なく死す。
後の人此の地に親子地蔵を祭ったのが即ち此の観地山地蔵と言い伝える。
即ち子供の危難病気に立願すればご利益あり
世人の尊信あつく近郷近在はもとより博多より参り来る人多し
星移り物換りて茲に八百有余年の昔物語となりける。

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米一丸地蔵尊6
お堂内部。
遺髪や短刀がご神体らしい。

米一丸地蔵尊9
こちらが米一丸の母の墓石


米一丸地蔵尊7

周辺にはお地蔵様が並んでいた。

米一丸地蔵尊10
2013年米一丸地蔵尊を訪れました。

米一丸地蔵尊11
米一丸地蔵尊の目の前にあった踏切は
高架工事によりなくなっていました。
ここが福岡三大心霊スポットで一つであった所以の
一つであった踏切だったのですが…。

米一丸地蔵尊12
踏切が無くなった以外は特に変化はないようですが…。

米一丸地蔵尊13
地蔵堂の裏に新しい観音像と地蔵が建立されていました。
「為米一丸御一行菩提」とありました。


米一丸地蔵尊の動画はこちら



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