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名越切通し

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名越切通し

名越切通し16
小坪トンネル」の上にある「名越切通し」
なんと本日は限定公開日である。
偶然来てみたんですけど…

名越切通し17
歩くとすぐに見えてきました。
史跡看板があります。

名越切通は、鎌倉時代に尾根を掘り割ってつくられたとされる通行路で、
鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』の天福元年(1233年)8月18日条に
「名越坂」として登場するのが史料に見られる最初です。近世以降は
「鎌倉七口」のひとつとしても数え上げられ、鎌倉と三浦半島方面とを
結ぶ道として重要な役割を果たしてきました。
切通の周辺には、鎌倉時代の防衛にも関係すると考えられる平場や
切岸(人工的な崖)、やぐら(四角い横穴に石塔を建て、納骨・供養する施設)
や遺体を火葬した跡なども多く分布しており、中世都市鎌倉の歴史的景観を
たいへん良く残しています。

現在の名越切通の道筋には、尾根の岩盤を掘り割って道をつくり、
両側が急な崖になっているところが3ヶ所ありますが、
最も高く切り立ったこの部分を第一切通と呼んでいます。
鎌倉時代に外敵の侵入を防ぐために、あえて狭くつくったと
言われていますが、発掘調査を行ったところ
意外な結果が明らかになりました。
現在私たちが歩いている切通は路面の幅が1〜1.5mほどですが、
その下に複数の古い道路免が重なって発見されました。
最下層(現地表から約60p下)の道路面は幅2mほどで、
そこから18世紀後半以降に作られた陶磁器が出土しました。
これによって、現在の道筋の地下に埋もれている最も古い道は、
江戸時代に使われていたということがわかったのです。
その後、地震などによって両側の崖が崩れるたびに道が埋まり、
そのつど整地・修復して新しい道をつくったため、
どんどんかさ上げされて路面の幅が約3m、両側に排水のための溝も
設けられていました。しかし、明治16年(1883年)に
トンネル道路がが、同22年(1889年)に横須賀線が開通すると、
切通も幹線道路としての役割を終え、埋もれるがまま修復の
手を加えられることもほとんどなくなり、最終的に現在のような
すがたになったと考えられます。

発掘調査では、鎌倉時代の路面は確認できませんでした。
切通に面した崖のかなり上のほうに鎌倉〜南北朝時代頃に
掘られたと思われるやぐらがあることから、
当時の道筋が今とあまり変わらないとすれば、
その道は今よりずっと急坂で、
高い位置を通っていたのかもしれません。
一方、時代が下って、室町時代の僧堯恵(ぎょうえ)は、
名越切通の様子を「畳々たる巌をきり、山をうがち、
旧跡の雲につらなる」と述べています(『北国紀行』)
中世の後半には、通行しやすいように掘り下げられていたことを
示しているとも思われます。
鎌倉幕府執権北條氏によって鎌倉の守りの要としてつくられたと
言われる名越切通は、当時のすがたそのものではないと
考えられますが、重要な交通路として近代にいたるまで
長く使われ続けてきた重要な史跡であることに変わりはありません


名越切通し18
いよいよここからが名越切通しです。

名越切通し19
岩盤が削られた狭い道。
これが切通です。

名越切通し20
この辺りが一番切通らしいかもしれません。
ただ鎌倉時代はもっと上の方に切通があったと
推察されています。

名越切通し21
国指定史跡 名越切通(なごえきりどおし)
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、
『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として
初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や
県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として
使い続けられた重要な道です。
急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて
通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては
復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も
集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、
中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の
防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な
石切場跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、
古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。


名越切通しの動画はこちら

ミツル名越切通しのレポートはこちら


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