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滑川処刑場跡

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滑川処刑場跡

山中一揆の農民の処刑場

滑川処刑場跡1
滑川の近くに祠があります。

滑川処刑場跡2
祠の中は石碑や地蔵が立ち並んでいます。

滑川処刑場跡3
首なし地蔵
西側から約1.5米の地蔵「日本回国、享保11年3月(1726)」
供養施主新田村是休と記してある。
次に高さ約60糎の地蔵5体(頭部がない)が並ぶ。
続いて力士墓が立つ「浜風岸右衛門墓、門弟中、文化
12年11月7日(1815)金剛力院弧年量哲信士」を刻む。
東側に高さ60~70糎の石碑(上部が折損)「文政13年(1830)
寅8月吉辰津山、本納大乗妙典日本大社」とある。
新田村は、現在の津山市新田。頭部のない5体の地蔵は、
津山城松平二代目城主松平浅五郎候(幼少6才)
時代の事、享保11年3月(1626)山中一揆の首謀者として、
滑川口吉井川原で処刑された仲田村池田徳右衛門、
見尾の樋口弥治郎と、津山城の獄中にて死刑にされた
東茅郡村七右衛門とその子喜平治、そして川崎の刑場で
処刑された土居村忠左衛門と富東谷村興七郎の六名であるが、
一体少ないのは、山中の遺族が持ち帰ったものとおもわれる。
大和町内会において、平成8年屋根を建造、毎年地蔵祭りで
懇ろに霊を弔っている。
平成8年3月津山百景(津山市)に選立されている。

滑川処刑場跡4
石碑と五体の首なし地蔵

滑川処刑場跡5
浜風岸右衛門墓。
なぜ力士の墓が…?
処刑場跡地になってもしかしたらこの辺りは
墓地になって、その後の開発で
有名人の墓だけ残したのでは…と推察。

滑川処刑場跡6
五体の地蔵は江戸時代から。

享保11年(1726)11月、美作の津山藩で山中一揆という
大規模な百姓一揆が起こっている。
藩内全域の村々で農民が蜂起して、津山城に押しかけた。
藩側が農民の要求をほぼ受け入れて一時は治まったものの、
さらに農民側が村役人宅等に押しかけ、超過納入した
年貢の返還を要求して猟銃・竹槍等で武装した。
翌年正月12日、まず大将格の牧の徳右衛門と32名の
百姓が捕えられ、翌日、みせしめのため、
そのうち25名が土居河原で斬首されて2ヶ所の峠で首を
晒されている。これによって救援の農民が牽制され、
数日後には大量の逮捕者を出すに至った。
このうち76名は取調べもないままに、この場で打首にされ、
残りは津山城に連行されて約1ヶ月の取調べがあった後、
2名が磔、20余名が打首となっている。
磔になったのは牧の徳右衛門と見尾の弥次郎で、
場所は岡山県真庭郡、出雲街道に沿った二の宮村と
院の床村の間に流れる滑川原であった。
「百姓一揆にみる反逆」参考

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