高橋お伝について

全国処刑場跡

1879年(明治12年)日本で最後に斬首刑となった人物である。
罪状は強盗殺人。
明治の毒婦とも言われ、当時は世間を騒がせた。
群馬県に生まれた高橋お伝は最初の主人が
らい病(ハンセン病)に侵され看病の甲斐なく死去。
(後に毒殺したという説に)
小川市太郎と恋仲になるが借金がかさみ、後藤吉蔵に
「愛人になるなら金を払う」と言われ、一夜を共にするが
翌日後藤吉蔵を殺害して財布を奪い逃走する。
裁判では姉(架空)の仇討だった、吉蔵の自殺だったなど、
無罪を主張するも、明治12年に死刑判決。
高橋お伝3
(高橋お伝斬首の図の画像は谷中霊園の高橋お伝の墓の看板より)
「日本の拷問と処刑史」名和弓雄 編
から抜粋すると
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昔は首斬り八百屋と呼ばれていた、と現在の社長さんは笑っていたが、
このスーパーの裏手入口に社長の仏心により観音堂が建立され、
毎年盛大な供養が行われている。
その余慶のためか、スーパー観音は日に日に栄えている。
この観音堂の右手が、首斬場の跡である。
高田 露代議士が目撃した、首斬り浅右衛門が
高橋お伝を斬首した首斬場である。
高い黒坂塀と昼なお暗い杉木立に囲まれた首斬場で、
安村大警視正立会いのもと
首斬り浅右衛門は、暴れ狂いもがくお伝の首を斬り損じ、
地に押し伏せて押し斬りに挽き切ったと
、同囚たちと一緒に
見せられた高田氏が鬼気迫る光景を詳細に書き残している。
すぐ近くに残っていたお伝首洗いの井戸も、
今は道路改正で埋められたと思う。
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書籍にあるスーパーはもうない。
が、高橋お伝の首斬場である「市ヶ谷監獄首斬場跡」は残っている。
高橋お伝の墓
谷中霊園には「高橋お伝」の墓がある。
高橋お伝の墓2
高橋 お伝 1850~1879
嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として
知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったので
これを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら
悪事を重ねた。明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋
後藤吉蔵をだまして殺害、所持金200両を持って逃走、京橋新富町で
捕らえられ、同12年、30歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は
都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで
有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された
気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た
魯文が世話人となって作られた。
死してなお、トイレの傍らにあるお伝の碑には、
いつも花束が絶えず、この碑にお参りすると三味線が
うまくなるというジンクスもある。自然石に「しばらく
望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」の
辞世の歌が刻まれている。子規の句に「猫の塚お伝の塚や
木下闇」もあるが現在魯文ゆかりの猫の塚は
谷中三崎町永久寺に移された。
谷中墓地掃苔録より
このお墓には納骨されていない。
このお墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた、
仮名垣魯文ら有志によって建立されたらしい。
高橋お伝4
小塚原回向院にひっそりあるのが高橋お伝の墓である。
高橋お伝戒名
榮傳信女
俗名 高橋お傳
小塚原にお墓があることから、
小塚原処刑場で斬首されたとある所もあるが、
小塚原処刑場は明治6年には廃止されており、
高橋お伝の処刑は明治12年なのであり得ない事である。
処刑は市ヶ谷監獄の首斬場である。

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