米一丸怨霊譚

米一丸怨霊譚 心霊スポット
米一丸怨霊譚

永万元年(1165年)に駿河国(静岡県)の木島長者に待望の男の子が生まれた。
木島長者は子供が生まれず、米山薬師に必死に祈願し、
40歳の時にできた子供であった。
米山薬師より一字頂き、名を「米一丸」と名づけた。
米一丸はその優秀さから神童と呼ばれ、美少年であった。
20歳で若狭国(福井県)湯川の長者の娘、八千代姫を妻とした。
八千代姫もまた大変な美人であったという。
文治元年(1185)、木島長者と米一丸夫妻は
主人の京都に住む一条に結婚の挨拶に向かったのだった。
一条は八千代姫を見るなり、すっかりその虜になってしまった。
一条はなんとか自分のものにしようと考え、手紙を八千代姫に送ったのだが、
断られてしまった。
ほどなくして一条殿は米一丸に命令をした。
福岡柳川在住の折、博多の土居町にいる奥伊右衛門という商人に
刀を担保に金を借りた。
それを今になって思い出したので取り返してきて欲しい、と。
米一丸は不審なものを感じつつ主人の願いならばとこれを受けた。
元暦元年(1184)の10月、米一丸は妻を置いて直好という信頼おける家来を含む
44名を連れて九州は博多へ旅立った。
米一丸は腕利きの家来を選りすぐっていた。
翌年の文治元年、博多に着いた米一丸一行は竹若勘九郎という男の浜屋敷に
宿を借りた。
早速奥伊右衛門に会い、一条の刀を引き取りに行ったが、今は家にないという。
奥伊右衛門は刀が戻ったらお知らせすると約束し、一行は仕方なく宿に引き返した。
しかし数日たっても奥伊右衛門からいっこうに連絡がない。
奥伊右衛門を訪ねても留守であったり、まだ戻っていないの一点張り。
実は奥伊右衛門は一条にある命令をうけていたのだ。
宿にしていた竹若勘九郎の浜屋敷にはお由紀という娘がおり、
米一丸の世話をしていた。
お由紀は次第に米一丸に惹かれ、米一丸もまたお由紀に惹かれはじめていた。
数ヶ月経ったある日、ようやく奥伊右衛門から刀が戻ったという連絡があった。
米一丸一行は奥伊右衛門宅で刀を受け取った。
奥伊右衛門はせめてのお詫びにと酒席を用意するという。
奥伊右衛門が用意した酒席はかなり豪華なもので、遊女をはべらせ、
見たこともないような豪華な料理が運ばれてきた。
遊女の一人はその米一丸の容姿に一目で恋に落ちた。
突如遊女は盃を口に運ぼうとした米一丸の手を払った。
遊女はすぐにその盃に酒をつぐと、自らそれを飲み干した。
まもなく遊女は激しくもだえ苦しみ、血の泡をふいてこときれた。
米一丸は刀を抜き、あたりを見回したが奥伊右衛門はすでに逃げた後であった。
文治元年7月18日、身の危険を感じた米一丸一行は博多を夜のうちに出ることにした。
ところがすでに屋敷の周辺には武装した一条の家来達が包囲しはじめていた。
米一丸一行はなんとか箱崎の松原に逃げ込んだ。
後を追う一条の家来。
逃げ場をなくした米一丸一行は一条の家来と斬り合いとなった。
数で勝っていた一条の家来は斬っても斬っても次々に襲いかかり、
とうとう米一丸は敵の刃にかかった。
とうとう米一丸を討ち取った一条の家来は首を斬ろうと近づいた。
なんと米一丸と思っていたのは男装したお由紀だったのだ。
お由紀は自ら志願し、愛する米一丸の影武者をつとめたのだった。
影武者を立て逃げるはずであった米一丸はお由紀が気になり、
家来が止めるのも聞かずにとうとう松原に向かってしまった。
すぐに一条の家来に見つかり、傷を負った米一丸だったがなんとか逃げ出した。
しかし傷は深く、米一丸はお由紀や国に残した八千代姫を思いながら自決した。
同じ頃、駿河で米一丸を待つ八千代姫のもとに白い影が現れた。
白い影は八千代姫を哀しそうに見つめ、すぐに姿を消した。
胸騒ぎを感じた八千代姫はすぐに身支度をし、侍女を連れて博多へ向かった。
半年後、博多へ着いた八千代姫に
娘を亡くした竹若勘九郎が事の一部始終を説明した。
絶望した八千代姫は箱崎松原に作られた夫の墓前で自決した。
米一丸一行が殺された箱崎松原では白い影を見た、女のすすり泣きを聞いた、
などといった奇怪な噂が広まった。
たびたび鬼火も目撃された。
元来通りも少なかった松原はさらに誰も近づかなくなった。
米一丸一行を殺害した一条の家来達は皆気が狂い、悶死。
一条に褒美をもらった商人、奥伊右衛門も米一丸の亡霊に惑わされ、
熱病にうなされながら悶死した。家もたちまち荒れ果てた。
一条も同じく亡霊と熱病にうなされ、悶死したという。
米一丸一行殺害に荷担した人間はすべて熱病で悶死したという。

 
 
米一丸地蔵尊
米一丸地蔵尊
福岡県東区箱崎の九州大学の近くに「米一丸」という地名の場所がある。
すぐそばの踏み切りは「米一丸踏切」と呼ばれている。
現在は踏み切りは高架工事により無くなっている。

米一丸地蔵尊2
この搭は、文治年間(1185~1189)に、
主である京の一条殿の計略により、
怨をのみ死んでいった 米一丸の供養搭である。
一条殿は、容色の美しい米一丸の妻を奪うため、
博多に入質している太刀を取返してくるように命じた。
米一丸は博多に下り、竹若勘九郎の家に寄宿し調べたが、
刀は既に人手に渡っていた。
その後、 米一丸は夜討にあい、
この地まで逃れてきたが、力尽きて自決した。
戦後、そばを通る鉄道で事故が相次ぎ、
米一丸の祟りだと地元の人は言い合ったのだという。
米一丸地蔵尊3
地蔵堂の裏には古い墓が並んでいる。
おそらく松原に点在していた石碑を集めたものと思われる。
米一丸地蔵尊4
お堂内部には米一丸とその従者、八千代姫とその侍女を祭っている。
かつて米一丸地蔵があった周辺は千代の松原と呼ばれ、
人通りも少なく不気味がられていた。
米一丸地蔵尊8
戦前の千代の松原の写真
さらに後日談となるが、米一丸の身を案じて
米一丸の母も福岡へ渡ってきていた。
米一丸の母は福岡入り後、箱崎に着く前に
本木村で米一丸の死を聞かされ、病に倒れます。
米一丸地蔵尊5
—-観地山縁起—-
観地山縁起
駿河の国木嶋長者とまでいわれた三河元直の一子
米一丸拾五歳にして木嶋政直と名乗り
元暦元年(1184年)若狭の国の長者の娘八千代姫を嫁に迎えた。
結婚披露のため京都一条殿に参殿した。
好事魔多しとか、垣間見た一条殿は姫に言いよったが
数度の文にも貞操堅固の姫の心を動かすことなわず
姫はそのまま国元に引揚げた。
このことが故で禍が木嶋一家にふりかかることになる。
文治元年(1185年)秋 米一丸は一条殿より命を受け、かつて九州柳川在住の折
手にした三池典太作の銘刀一振りを博多の人に遣わしてしたがその品取り返すため
然るべき代金受領し博多に出向くことになった。
一条殿の命とて一家涙の内に別れ文治二年正月、直好を頭とし総勢44名の家臣と共に国元を出発
翌三年正月博多は竹勘九郎方の浜屋敷に旅宿をとり件の刀の在処を詮議した。
土居町に奥某なる商人 心よからずかねてより一条殿の内密の命を受け
博多奉行とはかり金受け取りで次第米一丸の命を取ろうということで取引を延ばし
隙をみて米一丸を殺害しようとしたが主従共々力を併わせ一分の隙もなかった。
その後米一丸の博多逗留も二百日を過ぎかの銘刀の譲り受けもすんだところ
敵は四百人ばかりで浜の屋敷を攻めたてた。
主従力を併わせ千代松原に逃れ奮戦したが利あらず米一丸覚悟をきめ
七生此の恨み晴らさでおくものか、
さらばとて恨みを呑んで一文字に腹かき切って死す
こうして郎党の衆四十五人も共に主人の跡を追う
あとにひとり松風の音のみ悲しい調べを奏でていた。
米一丸の奥方八千代姫は夫の身を気遣い博多に至ったが
既に夫が殺されたのを聞きその地にて跡を追って自刃してしまった。
母親も吾子の成り行きを案じながらはるばる九州路に下られたが本木郷下がり藤にて
米一丸の悲運を聞き病に倒れ程なく死す。
後の人此の地に親子地蔵を祭ったのが即ち此の観地山地蔵と言い伝える。
即ち子供の危難病気に立願すればご利益あり
世人の尊信あつく近郷近在はもとより博多より参り来る人多し
星移り物換りて茲に八百有余年の昔物語となりける。
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米一丸地蔵尊6
お堂内部。
遺髪や短刀がご神体らしい。
米一丸地蔵尊9
こちらが米一丸の母の墓石
米一丸地蔵尊7
周辺にはお地蔵様が並んでいた。
米一丸地蔵尊10
2013年米一丸地蔵尊を訪れました。
米一丸地蔵尊11
米一丸地蔵尊の目の前にあった踏切は
高架工事によりなくなっていました。
ここが福岡三大心霊スポットで一つであった所以の
一つであった踏切だったのですが…。
米一丸地蔵尊12
踏切が無くなった以外は特に変化はないようですが…。
米一丸地蔵尊13
地蔵堂の裏に新しい観音像と地蔵が建立されていました。
「為米一丸御一行菩提」とありました。


福岡県心霊スポット

心霊スポット朱い塚-あかいつか-

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