国道11号線の桜三里。
桜の名所にしようと桜を植樹した場所で
昔植えたものは減少傾向だが、現在は地元の
植樹活動が実を結んで桜の名所となっている。
桜三里の休憩所のトイレの裏には観音像がある。
桜三里は昔処刑場だったという噂がある。
桜三里(中山越)
「桜三里を夜で越す時にゃ親にゃ是非ない妻恋し」
と唄って交通の難所と言われた。
中山越の起源はわからないが歴史は古いであろう。
中山越が一般的に必要性を増したのは鎌倉以後であろう。
江戸期に入ると松山藩領の道前と道後を結ぶ道として
必要性がふえた。金毘羅参り、お山参り(石鎚)が盛んになり
商人の往来がふえてくると一層必要性がふえてきた。
中山越は川内町松瀬川より小鳥越→大鳥越→三軒屋→七曲→
大桧皮峠→札場→小峠→田桑→千原(丹原町)→上落合→
笹ヶ峠→宝ヶ口→来見までの間、中山川沿いを通って
二つの平野を結ぶ幹線でもあった。
藩でも力を入れた道であった。
「田桑の鞘橋御公儀普請」といわれ屋根に手すりのついた
立派な橋がかけられていた事でもわかる。
貞享4年(1687)松山藩士矢野五郎右衛門(源太)は
8240本の桜の木を植えた。崩壊を防ぐのに桜がよいといわれ、
藩の囚人を酷使して植えたのだという。
以来桜の季節は美しく「桜三里」と呼ばれるようになった。
また一節には、平家の残党樫原源太季秋は、土地の娘
お初と懇になり百姓姿に身をやつし、平家の再興を願って
中山川添の地に桜を植えたという。
幸福な二人の間に男の子が生まれたがお初は産後の日立ちが悪く、
最愛の夫と子供を残して亡くなった。
号泣、動哭、悲哀は憤怒にかわり桜にむかって
「汝すべての欲を去って散るべきに散れ決して実を結ぶことなかれ」
といい、桜の木に「桜三里は源太の仕置花は咲くとも実は成るな」
と書き残して愛児もろ共最期を遂げたという。
二つの哀活は共に旅情をさそう。
諸国道法ができ城下町を中心に一里毎に道標が建てられ、
木から石標に代らられたのが元文5年(1740)今に残っている。
「松山札の辻とり●里」の道標はこれである。
金毘羅大門へ●●里も目につく道標である。
難所であった事は道中地蔵さんの多い事でわかる。
旅の安全を神仏に頼った名残である。
新しく国道ができて旧街道はさびれて通過しぬくい所もあるが、
中山越時代の道はほとんど原形をとどめていて懐かしい、
今や桜三里は建設省や地元有志で国道添に桜が見事に管理され
旅情を慰めている。
おそらく藩の囚人を酷使して植えたというところが
桜三里を処刑場と言った所以かと思われる。
確かに藩命に背いて逃げ出した囚人なら、処刑された可能性は高い。
源太桜
対岸の杉本立ちの中、旧桜三里街道に並ぶ
二本の桜がそれである。
貞享4年(1687年)田野の代官
矢野五郎衛門源太は、藩命を被り、
金毘羅街道の川内町桧皮峠から
丹原町落合に至る山中三里の間に
8240本の桜を植えた。
その時、深い谷川から急坂をあえぎあえぎ
水をかつぎ上げて桜に水を汲んだであろう人々は
その苛酷な労働に堪えかねて
「桜三里は源太が仕置き 花は咲くとも実はなるな」
と怨嗟を残した。
以後この道を桜三里と呼んだという。
桜はその後千原銅山の煙害などでほとんど
枯れてしまい、この桜がその時植えられたものかどうかは
わからないが、ともかく300年を生き延びて
春には毎年見事な花を咲かせている。
頌徳碑
水利事業記念碑でした…。