三毛別羆事件
さんけべつひぐまじけん
苫前町は、明治20年代後半になると原野の開拓がはじまりました。
未開の原野への入植は続きましたが、掘っ建て小屋に住み、
粗末な衣類を身に着け、空腹に耐えながら原始林にいどみ、
マサカリで伐木、ひとくわひとくわ開墾したのでした。
大正初期、町内三毛別の通称六線沢(現・三渓)で
貧しい生活に耐えながら、原野を切り開いて痩せた土地に
耕作をしていた15戸の家族にその不運は起きたのでした。
大正4年12月9・10日の両日、約380㎏の巨大な羆が
現れたのです。冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれるこの羆は、
空腹にまかせて次々と人家を襲い臨月の女性と子供を
食い殺したのでした。
その夜、この部落で犠牲者を弔うため人々が集まり通夜が
執り行われていた民家に、再びこの羆が現れ、
通夜は一転して悲鳴と怒号の渦と化しました。
人々は逃げて奇跡的に助かりましたが、食欲が満たされず
益々興奮した羆は、再び近くの人家を襲い、
9人の内5人を食い殺したのでした。
この事件の犠牲者は10人の婦女子が殺傷(7人が殺され、
3人が重傷)される、獣害史上最大の惨劇となったのです。
恐怖のどん底に落とされたこの部落に、熊撃ち名人として
名高い老マタギ山本平吉が鬼鹿から駆けつけ、
12月14日にこの羆を射殺したのでした。
その時突然空には一面の暗雲がたちこめ激しい吹雪となり、
木々が次々となぎ倒されました。
この天候の変わり様に人々は「クマ嵐だ!
クマを仕留めた後には強い風が吹き荒れるぞ!」
と叫んだのでした。
実際に集落のあった場所の近くに
当時の掘っ建て小屋を再現した場所があります。
クマの姿をしたオブジェが。
三毛別羆事件跡地の石碑
掘っ建て小屋内部。
これでは大きな熊の攻撃ではひとたまりもなかっただろう。
小屋を突き破って逃げたとも話がありました。
これでは…
この付近でヒグマの目撃情報が寄せられております。
見学される方は十分注意されるようお願いします。
…と下の看板にある。
ちなみに穴持たずのヒグマは…張りぼてでした。
付近には熊穴の再現をした穴もあります。
最終的には山本兵吉によってヒグマは
この橋辺りで射殺されました。
近くの三渓神社は当時の区長の息子が
亡くなった村人の慰霊のため建立された。
熊害慰霊碑
大正4年12月9・10の両日冬眠を逸した
一頭のヒグマが空腹から凶暴性を発揮し
10人の婦女子を殺傷した事件がありました。
ヒグマは前日(9日)襲った太田家の
通夜に再び現れたあとその足で明景宅を
襲ったのです。ここには附近の女子達10人が
避難をしていたのですが、激しい物音と地響、
窓のあたりを凄まじい勢いで打破りイロリを
飛び越え巨大な羆が崩れ込んできたのです。
大鍋ははひっくり返り焚火はけ散らされ
ランプは消えて逃げまどう女子達に巨羆は
おそいかかったのです。
臨月の婦人は「腹破らんでくれ」!!
「のど喰って殺して」と絶叫し続け
ついに意識を失ったのです。
この巨羆も事件発生後6日目(14日)
人智に抗しきれずあえない最後を遂げたのです。
巨羆は金毛を交えた黒褐色の雄、
身の丈2.7m体重340キロ
袈裟がけの7、8才と言われております。