七松城跡現在は七松八幡宮
有岡城合戦の末の処刑場としての方が有名。
織田信澄は落城した有岡城に警護の兵を置き、
城内の侍、婦女子を厳重に監視させた。
村重の一族は京都へ送られ、それ以外の人々は
見せしめのため七松で処刑される事にした。
上臈衆122人が磔。
母子を槍や長刀・鉄砲で処刑。
次に下級武士の妻子とその侍女388人、若党124人が
4軒の家に押し込められ、火を放たれ、焼け死んだ。
1019年に創建された氏神である七松八幡宮には
このときの死者を慰霊するが建てられている。
神社の隅に石碑が建っている。
七松城落城
なくなられた武士及び家族
故 六百三十余人之碑
戦国の世とはいえ600人以上が処刑されるというのは…