法印の首塚
戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える
甲斐の武田信玄は、諸将に大軍を引きつれ小田原に北條氏を
攻めた後、相模川沿いを北上し、三増峠(愛川町と津久井町との境)
を突破せんとする時、北條方もこれに大軍を備えて迎え撃ち、
激しい戦闘が展開された。時は永禄12年10月8日、世に言う
「三増合戦」である。山岳戦になれた武田軍は、堅固なる
北條方の陣営を突破して山王の瀬を渡り、
甲府に無事帰還したのである。
この日小田原北條氏の配下にあった日向薬師の山伏の一団は、
甲州軍の一支隊の退路を遮断せんとして、ここ駒入原にて
戦闘を交えたが、奮戦も空しく日向薬師八大坊の、
前大先達権大僧都勝快法印を始めとして
この地で討死をしたのである。
村の人達は、討死した人達の霊を弔うべく若宮八幡宮として祭ったと
伝えられている。八幡社は以前は離れた山の上にあったが、
明治年間に諏訪神社の境内に安置されたといわれている。
日向山伏の修験はかなり古くより行われており、その経路として
記録されているものは次の通りである。
ぽつんと石碑があった。
これが法印首塚である。
石碑には「供養碑」と文字がある。
三増合戦に勝利をおさめ甲州へ
帰還しようとする武田勢の一支隊の
退路を絶たんと、北条配下にあった
日向薬師の山伏たちが壮絶な戦いを
挑みましたが、奮戦むなしくこの地において
討ち死にしました。