離れた場所に見えるこんもりとした森。
あそこが小机城址である。
小机城址市民の森として公園として整備されている。
山道に遊歩道が設けられている。
市民の森となっていることもあってこの日は
親子連れが何組かいました。
空堀の跡。
開けた場所にでました。
親子連れが遊んでいます。
本丸
本丸は一城の中心になり、
主将のいる所で、合戦中には、
戦闘の指揮が置かれます。
縄張りを行う時、最も防備に
主点が注がれます。
城址の調査等実績の少ない
小机城については、現在地が
本丸跡とは断定できません。
小机城について
築城の年代は明らかではありませんが、
おそらく、このあたりがひらけた12世紀以前ではないかと
思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の
勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、
それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに
端を発して反乱を起した時、景春に味方した矢野兵庫助らが
城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ橋付近)に
帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて
北条早雲に追われ、小田原北条の陣地となり、
40年間廃城になっていました。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、
笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ
位置にあり、この地には以後軍事、経済の両面で極めて
重要な役割を果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が
亡び、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として
200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に
住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。