常山城跡

心霊スポット

常山城跡1
2016年オカルト番組で心霊スポットとして特集。
正直筆者は聞いたことありませんでしたが
歴史背景を考えると心霊スポットと言われても
仕方ない内容でした。
戦国時代、覇権を争っていた東の織田信長と西の毛利輝元。
常山城主の上野氏はもともと毛利輝元側でしたが、
勢いにのる織田信長につこうとしていました。
1575年6月7日、毛利輝元は6000人の軍で常山城を包囲。
常山城には兵士200人しかいませんでした。
上野隆徳はこれをみて切腹。
しかし妻の鶴姫は侍女を伴い武装して毛利軍に斬り込みました。
一時は陣形を崩してしまうほど毛利軍も虚を突かれました。
しかし圧倒的な数で勝る毛利軍は立て直し侍女軍を殲滅しました。
鶴姫は毛利側の武将、乃美宗勝を発見し、一騎打ちを申し込むも
乃美宗勝に「女を斬る事はできぬ」と説得されました。
鶴姫はあきらめ常山城に戻り自害。
常山城跡2
先ほどの看板から少し上がると寺のお墓にぶち当たり、
その周辺に山へと続くこの登山口があります。
が、この登山道は本当に山登りとなるほか、4キロ弱の
登山になるそうです。
今回は別ルートからのアプローチを試みます。
常山城跡3
オカルト番組でも取り上げられていましたが、
この山は本当に地蔵が多いです。
でもよく見ると弘法大師のようにも見えます。
常山城跡4
霊場とよばれる山ならここまで石仏があっても
驚きませんが…
今回は車で行けるところまでいこうと思います。
常山城跡5
車一台が走れる道を進むこと10分ほど。
ついに行き止まりました。
理由は土砂崩れで道がごっそりなくなっているからでした。
常山城跡6
車を停めて土砂崩れを乗り越えて徒歩で進みます。
ちなみにかなりの危険を伴いました。
夜間などは滑落の危険性大です。
常山城跡7
かつてはアスファルトで整備されていた道路だったようですが、
さきほどの崖崩れから完全に車は行けなくなっています。
落ち葉にうもれた道路を進むとカーブごとに石仏があります。
これは観音様でしょうか。
…ずっと何か後ろから視線とついてきている感じがします。
とても警戒されている感じがしました。
霊感はないのですが…直感です。
常山城跡8
崖崩れでかつては斜面にあったであろう石仏が
道路のすぐそばに安置されています。
よく見るとやっぱり弘法大師では…?
さらによく見ると「五十七番」と書いてあります。
五十七体以上の石仏がここにはあるということでしょうか。
常山城跡9
舗装された道路から少し入ると石仏群が。
異様な光景があります。
かつての城への山道だったのでしょう。
ここからは山道を使って頂上を目指します。
常山城跡10
石仏もなんだか変わってきました。
三体が彫られています。
常山城跡11
こちらは聖観音菩薩でしょうか。
かなり城の場所まで近づいてきた感じがします。
常山城跡12
藪の中から石垣らしきものが現れてきました。
常山城跡13
頂上に達しました。
遠くからみると見えるアンテナ塔。
そしてその目の前に「城主上野隆徳公碑」とある碑が。
そしてその碑のそばにあるのが…
常山城跡14
腹切岩
城主上野隆徳が切腹の場所と伝えられている。
常山城跡15
想像ですが、城内の庭にあった岩のそばで
切腹をして果てたのではないでしょうか。
鶴姫は一騎打ちを断られ、ここで
上野隆徳の後を追ったのかもしれません。
常山城跡16
よく見ると背後にはボロボロの展望台が。
あがって動画を撮影。
常山城跡17
そして山頂から階段を下りた場所に鶴姫と
その侍女たちの墓があります。
常山城跡18
一番奥が鶴姫の墓。
ここは本当に空気が違いました。
右には新しい「落城四百年忌供養塔」があります。
常山城跡19
侍女たちの墓。
五輪塔が並びます。
常山城跡20
侍女の数は諸説あるようですが34名。
やはり最近は誰も来ていないような雰囲気です。
常山城跡21
しばらく行くと駐車場の跡やトイレの跡がありました。
かつてはここまで車で来れたのでしょうが…

「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、
「常山城跡」はあります。
城郭は山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成される、
「連郭式山城」です。
築城の時期は戦国時代の初めと推定され、
上野氏、戸川氏、伊岐氏等の城主が知られています。
女軍の戦いは1575(天正3)年のことで、
この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。
その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが
毛利氏の築城技術と言われる堅掘や堀切の遺構は
発見されていません。
恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により
現存する常山城が整備されたと思われます。
常山城は児島半島が島であった時期には、
備前本土はとの海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、
やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、
1603(慶長8)年に廃城となりました。
城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった
下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
筆者でもなんだかこの城跡は不思議な感じがしました。
なので、この調査後、当塚で心霊写真の鑑定をしている
霊能者にも写真を見せました。
常山城跡22
千手観音像。
城に近づくにつれ観音様が圧倒的に増えました。
廃城後祟ったかなにかではないとこの石仏群の多さは
説明がつきません…
常山城跡23
不思議なのはこの石仏。
横を向いています。
あまり横向きな石仏は見たと事がなく、
霊能者も首をかしげていました。
常山城跡24
如意輪菩薩のようだが…
霊能者によるとひょっとしたら
切腹した方向を向いているのかも、と。
常山城跡25何気に撮った石碑でしたが、霊能者はこれはなんかあったね。
と言っていました。
この写真らをみせた際、詳しい説明前に霊能者からは
女性、姫様がすごく追い詰められて焦っている感じが伝わってくると
言われました。
ちなみ城へ向かっている間の視線と警戒感は、
鶴姫のお墓で手を合わせてから止みました。
心霊関係でいうと心霊スポットでしょうが、
山の状況を考えるに今後整備されなければ
初心者の登山は危険だと思います。

岡山県心霊スポット

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