東京都青梅市にある七兵衛公園
裏宿七兵衛についてはこちらをお読みください。
七兵衛公園
江戸時代、この地には七兵衛という農民が住んでいました。
伝えられるところによると、実はこの七兵衛は盗賊で、
しかも奪った金品はすべて貧しい人々に分け与えた
義賊であったといわれています。また、彼はまれに見る
健脚の持ち主だったそうで、その自慢の健脚を生かして、
はるかな遠方で盗みを働き、一夜のうちに帰ってきては
朝から何食わぬ顔で畑仕事に精を出したので、周りの人たちは
誰ひとりとして気づくことがなかったというのです。
七兵衛が、このように多くの人々に知られるようになったのは、
中里介山の有名な長編小説『大菩薩峠』の中で、
その伝説像がさらに介山によって脚色され、
魅力ある登場人物として描かれたことによります。
しかし、現存する史料から見ると、旧二俣尾村の名主である
谷合家の見聞録の中に、元文4年(1739)10月、
七兵衛がその一味とともに捕えられ、程なくして
処刑されたとあるのみで、わずかにその実在が確認できるだけです。
つまり七兵衛公園が裏宿七兵衛の住居跡である。
現在は住宅街にある公園である。
公園の入り口には地蔵が並ぶ。
裏宿七兵衛由来のものなのかどうか…
公園の一角に供養碑が。
裏宿七兵衛供養碑
我が青梅市が生んだ熱血の侠児通称裏宿七兵衛は享保の頃より
元文年間にかけて困窮せる庶民の救世主であった。
たまたま当時の世相は凶作相続き賤民は塗炭の苦しみの中にあった。
為に近村の名主等相集い代官に訴えたのであるが
かえって入牢の上牢死せるもの数人を数えるに至った。
生来義侠心に富んだ彼は決然として起ち
百姓町人の膏血を絞り己れのみ驕(おご)りに耽(ふけ)る
強欲非道の不徳漢のみを襲ってその得た財貨は
悉(ことごと)く之を不運に泣く貧民に名も告げずに
与え己れは常に粗衣粗食に甘んじていた。
然し天下の法は曲げることは出来ず温情ある幕吏も遂に彼を捕え
元文4年11月25日大柳河原において処刑しその首を笹の門にさらした。
附近の宗建寺第17世大湫和尚はいたく之を憐れんで
厚く寺内に葬った。同寺の過去帳の一節は彼七兵衛の人柄を
如実に表してあり轉た感無量あるのを禁じ得ない
法山祖幢信士位 年号不知 裏宿者也 俗名 七兵衛
由来不可尋 永々供養可致者也
山里介山先生著 大菩薩峠が発刊されて以来裏宿七兵衛の人間味
ある生涯はにわかに世人の注目するとことなった。
よって茲に里人有志相計り梅園町両自治会の協力を得て
この遺跡に供養碑を建立し以ってその義侠を後世に傳えんとするものである。
昭和35年11月27日
この住居跡は何か建物を建てると祟ったということで
現在は公園になったという話もある。