江古田公園内にある「江古田古戦場跡」の碑
江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方6丁目にいたる
新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477)
太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(1454-1482)という
長期にわたる内乱の中での戦でした。
享徳の乱は、古くからの豪族に支持された
関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが
対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が
殺害されたことがもとで起きました。
この乱により関東は二分され、幕府などの支援を
うけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、
そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、
武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、
戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た
豊島氏にかわって太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、
大きな意味をもっていました。
昭和57年2月
中野区教育委員会
この合戦で犠牲になった豊島氏側の武士を弔うために作られたのが
「豊島塚」である。
豊島塚は江古田や沼袋周辺に点在していたが
区画整理によりそのほとんどが失われた。
狐塚、蛇塚、金塚、大塚、四ツ塚、稲荷塚などこれらが豊島塚である。
そのうち金塚からはかなりの数の人骨が出てきたとか。
豊島塚にちなんで丸山塚公園と命名された。
ここ丸山塚公園には上記写真の豊島二百柱社がある。
こちらも豊島氏を祀っている。
そのすぐそばにある延命地蔵も豊島氏を祀っているという。
延命地蔵
豊島氏の恨みはすごかったようで、各地に
塚にまつわる怖い話が残っているようだ。