院内銀山史跡案内
院内銀山の歴史
院内銀山は、慶長11年(1606)村山宗兵衛ら
4人によって発見され、翌12年から操業された
わが国有数の銀山であった。
開坑直後資本家、技術者、労働者が
全国から集まり銀山町が形成され、
最盛期には人口1万人を超えたと伝えられる。
また、人とともに諸国の文化が流入し、
出羽の都と称されるほどの繁栄を見た。
大量の産出銀はもとより莫大な税収と
専売収入が得られる院内銀山は、
秋田藩の重要な財源であった。
藩政時代においては、5300貫(20トン)の
採光年産を記録した慶長期と、1200貫(4.5トン)の
平均年産が10年以上も続いた天保期が盛り山を代表する。
近代に入り、明治9年(1876)工部省の
直轄となり巨大な投資によって近代化された。
明治18年(1885には古川市兵衛に払い下げとなるが、
この頃からは産銀量が増大し、特に明治28年(1895)には
4100貫(15トン)を記録した。
その後、銀価格暴落等によって鉱況が著しく不良となり、
大正9年(1920)採掘停止に至った。昭和初年探鉱所を設置し
再興を図ったが、昭和29年(1945)全山休山となり、
350年の歴史に幕を下ろした。
院内銀山三番共葬墓地の由来
院内銀山は開山以来、大変なにぎわいを極め
諸国より入山の有縁無縁の者達がここ銀山で生涯を終え、
数知れない人々が数か所の寺に葬られております。
しかし、それ以外の多くはこの共葬墓地に葬られ
閉山までその数おおよそ三千余柱と推定されます。
古くより開かれたと思われるこの墓地も当初は
土盛や鉱石そのものを墓誌としたもの数多くあり、
墓石に彫りつけられている年号の最も古いものは
延享5年(1748年)と記されたものがあります。
のち銀山最盛の頃は、親分や兄弟分の手によって
埋葬された名の知れぬ者もあり、静かに
数百年の眠につかれたことを思えば、
うたた哀愁の感深いものがあります。
しかし、この無名の人々の苦労によってその
潤された経済圏は佐竹藩の台所をささえ、地元はもとより
平鹿。仙北まで及んだことはいまさら言うまでもありません。
幸いこの墓地も昭和48年より老人クラブの手により
年々清掃されており、又、供養のため隣に
静観音を建立致しました。
地下に眠る霊も定めし意を安じていることと思われます。
三界万霊塔と地蔵尊。
背後に点々と墓石が並ぶ。
崩れかけの墓石もあり、無縁墓地苑に来たような
雰囲気がある。なんとも空気が重苦しい。
外気温と車の中の温度差がありカメラのレンズが
何度も曇ってしまいました。
御幸坑
この坑道は、かつて五番坑と呼ばれ、
坑道数ある中で、唯一の坑夫の出入り口であり、
江戸時代には坑口広場に労務管理の五番役所(山方役所)
が置かれていた。
明治天皇が東北御巡幸中の明治14年9月21日、
院内銀山に立ち寄られ、五番坑及び諸工場を巡覧された。
国の鉱山記念日は、この日をもって定められ、
後日、当時の工部大輔吉井友実によって、
御幸坑と命名された。
明治39年1月4日には、坑内火災が発生し、
百名以上の坑夫が犠牲となる痛ましい事故があった。
大正末期、採掘中止により坑道が閉鎖され、
以後、この五番坑は御幸坑とのみ称されるようになった。
ここが坑道入り口。
なんとも異様な雰囲気です。
坑道内部。
やはり奥で閉鎖されています。
坑道むかって左側に上っていく道があり、
行ってみるとそこにも草木に埋もれかけた墓地がありました。
この辺りにはかつてお寺があったようです。
寺の墓地がちょうどこの辺り。
西光寺跡
浄土宗院内山西光寺は、正楽寺とともに銀山初期寺院の一つで、
慶長12年(1607)銀山諸衆の願いによって建立された。
二世住持として京都から来山した僧侶が
信徒の願いを受け、上方から阿弥陀如来像を勧請して
安置し御本尊とした。
寛文2年(1662)落雷によって寺は焼失したが、
御本尊の仏像は奇跡的に難を逃れ、その後再建された
西光寺に再び安置された。
大正末期、銀山の衰退により寺は廃寺となり、
阿弥陀如来像は院内馬場の誓願寺に移され、
現在も同寺に保存されている。
この仏像は昭和34年、秋田県指定文化財に指定された。
少し離れた場所、
川を挟んだ向こう側に何か祠が見えます。
正楽寺跡
一向宗正楽寺は、法領山正楽寺と称し、
村山宗兵衛により創建された銀山最初の寺で、
昭和の中期まで銀山最後の寺として存続していた。
境内には、銀山盛時の有力者の墓が沢山あり、
工部省管轄当時、明治天皇御臨幸の際、
御先導申し上げた初代鉱山長福島晩郎氏の
墳墓も寺跡の高台に現存する。
銀山盛時には、次の十一ヶ寺の仏院があった。
一向宗 正楽寺
一向宗 善王寺
一向宗 光円寺
浄土宗 西光寺
浄土宗 玄徳寺
浄土宗 誓願寺
真言宗 延命寺
真言宗 宝泉寺
禅 宗 金竜寺
日蓮宗 本行寺
日蓮宗 延正寺
無縁水子霊供養塚
これだけ真新しい感じですね。
院内銀山無縁供養塔
(観音)建立の由来
この院内銀山供養塔(観音)を建てるについては
当町出身の愛犬小牧市在住の永島房雄氏が
祖先の墓参りに来て苔むし草木がのび放題の
荒れはてた墓地を見て「墓地の整備資金」にと
寄付をされた浄財によるものです。
町では永島氏の御芳志にこたえるべく町の
老人クラブの協力を得て、慶長11年(1606年)に
院内銀山が発見され大正10年の閉山に至るまで
約314年間、千数百体の墓石に眠る鉱夫や
その家族等約三万人の有縁無縁の菩提の
供養のため、ここに観音を建立するに至ったものです。
そして昭和507年9月20日開眼供養を厳粛に行いました。
水子塚。
なんだか院内銀山は水子関係が多いですね。