伊集院源次郎忠眞の墓

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伊集院源次郎忠眞の墓
伊集院源次郎忠眞の墓
なんと朱色の塚
当塚のサイト名の通り朱い塚なのだ。
看板より
伊集院源次郎忠眞の供養塔
昭和56年9月18日 指定文化財
忠眞は島津氏の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男である。
文禄4(1595年)年、幸侃は鹿屋2万石から都城8万石の
領主となるが、その後の慶長4(1599)年、京都伏見の
薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)に
より殺害された。都城の忠眞はこの事件を知り主家島津氏に
反旗を翻し戦いとなった。庄内の乱である。
翌年、戦いが不利になった忠眞は、徳川家康の仲介で
和睦を受け入れ、頴娃1万石を経て帖佐2万石を給された。
慶長7(1602)年、島津忠恒は上洛するにあたり忠眞にも
同道を命じた。そして上洛途中にこの野尻に滞在した忠恒は、
8月17日、鹿狩りを行った際に忠眞主従を殺害させた。
この事件で忠眞射殺の命を受けた穆佐の士、
押川治右衛門と渕脇平馬は、忠眞と馬を交換して乗っていた
平田新四郎(島津氏家老の子)を忠眞と思い誤射した。
押川はその責を負い、自害したという。
ここにある供養塔(五輪塔)は、非業の死を遂げた
忠眞の慰霊のため建立したものである。
また、五輪塔に向かって右側の近い方が押川治右衛門、
その隣が平田新四郎の供養碑で、事件の翌年、押川則貞が
施主となり建立したものである。
なお敷地内後方に並ぶ石碑は、忠眞家臣の墓石と考えられ、
野尻城址に散在していたものを、平成21年、この地に移したものである。
平成21年12月
小林市教育委員会
伊集院源次郎忠眞の墓2
伊集院源次郎忠眞の墓の後方にある家臣の墓。
伊集院源次郎忠眞の墓3
文字も読めないが伊集院源次郎忠眞の家臣と思われる人の墓なのだろう。
伊集院源次郎忠眞の墓4
左が平田新四郎の供養碑
右側が押川治右衛門の供養碑
伊集院源次郎忠眞と巻き添えになった人物ばかりか、
直接手を下した人物の供養碑まであるとは…
伊集院源次郎忠眞の墓5
こちらも伊集院源次郎忠眞の家臣の墓なのか…
辺りには点在している。
伊集院源次郎忠眞の墓9
塀のそばにも塚が。
これも伊集院源次郎忠眞の家臣のものか?
伊集院源次郎忠眞の墓6
近くに伊集院源次郎忠眞のものか?
木像があった。
伊集院源次郎忠眞の墓7
さて伊集院源次郎忠眞の五輪塔だがよくみると
五輪塔そのものも赤く塗られている。
伊集院源次郎忠眞の墓8
大正時代頃にここの周辺一帯では大火事が起こり、
伊集院源次郎忠眞の祟りではないかと恐れられ、供養されたという。
さらに、伊集院源次郎忠眞の墓を写真に撮ると死ぬという噂もある。
だが、地元の教育委員会などでは写真をweb上に掲載している他、
個人で写真をアップしている人もたくさんいる。
参考文献:怖い噂vol.6 ミリオン出版
2014年再度訪れました。
伊集院源次郎忠眞の墓10
以前来たときは新燃岳の噴火で
火山灰が積もっていました。
伊集院源次郎忠眞の墓11
赤い色の塚。
伊集院源次郎忠眞の墓12
この木像が田の神さぁという地元の神様でした。

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