江戸時代に書かれた地書や紀行文の多くが、
八幡では「藪知らず」のことを載せています。
そして「この藪余り大きからず。高からず。
然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、
「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、
中凹みの竹藪にして竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまな雑樹生じ…」
などと書かれたりしていますが、
一様にこの藪知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、
入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され
「諸国に聞こえた名高き所なり」と
言われて全国的に知られていました。
入ってはいけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・責人の古墳の跡である。
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、
この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣六人がこの地で泥人形になった…
と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八~六一年)、
水戸黄門(徳川光國)が藪に入り
神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、
取り沙汰されてきたものではないでしょうか。また理由のひとつとして
「藪知らず」が「放生池」の跡地で
あったからではないかとも考えられます。古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、
放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。
藪知らずの中央が凹んでいることからすると、
これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、
八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には
「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、
以上のような話が作られていったものと思われます。
「不知八幡森」の碑は安政四年(1857年)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
藪知らずの祠
不知八幡森の石碑
なんの石碑かわからない…
薮知らず内部。
カメラだけ突っ込んで撮影しました。
外観(駐輪場から)
歩道橋からの外観。