その昔、福岡城の城下町に凶宅と呼ばれる家があった。
家人が次々と変わり、住む者もいなかった。
年月が経ち、その家に浅野四郎左衛門という侍が妻、お綱と住む事になった。
浅野四郎左衛門は美男子で福岡城でもちょっとした有名人でもあった。
妻のお綱は取り立てて美人というわけではなかったが、
四郎左衛門はお綱の父、久野に頼みこんで嫁とした。
時の藩主は忠之公。
忠之公は江戸への参勤交代の際に四郎左衛門も同行させた。
帰りの大阪で忠之公と四郎左衛門はお忍びで酒席へと繰り出した。
ここで忠之は大阪でも美人で評判の芸妓に一目惚れ。
四郎左衛門に芸妓の身受けをさせ、福岡へ連れ帰った。
忠之公は芸妓や四郎左衛門と昼夜を問わない宴。
すぐに古家老の栗山大膳に知れることとなった。
忠之公は大膳にきつくお説教され、芸妓を手離すことにする。
忠之公「四郎左衛門、芸妓はその方の側室にせよ。」
四郎左衛門も妻と二人の子供もいる。
一度は断るものの、主君忠之公の命令、しかも公然と第二夫人が持てるのだ。
四郎左衛門にとっては悪い話ではない。
妻のお綱も大反対であったが主君の命令とあっては仕方がない。
お綱もさすがに気が気ではない。愛人と妻の同居である。
そのうち耐えられなくなり、奉公人と子供を連れて下屋敷に移ることになった。
寛永七年一月
お綱が子供達と下屋敷に移ってから、四郎左衛門は一度も来なかった。
二人の子供も父上はどこかと泣いた。それを伝えても四郎左衛門は下屋敷を訪れない。
仕送りもなくなったために奉公人も次々と辞めていった。
仕送りは芸妓が止めていたのだ。
こうして二ヶ月が過ぎ、三月となった。
雛の節句(ひな祭り)が近づいている。依然として仕送りも四郎左衛門も来ない。
たまりかねた古株の奉公人、善作はお綱にこう告げた。
「私がご主人様に申し上げてきます。雛の節句ぐらい祝って差し上げたいものです。」
本宅に着くと善作は今までの窮状を訴えた。しかし四郎左衛門は聞く耳を持たない。
ついには肥後の国(熊本)から来た居候の明石彦五郎に屋敷を追い出されてしまう。
善作はあまりの仕打ちに涙し、お綱とその子供の行く末を案じた。
このまま帰ることができようか・・・
下屋敷の近くの松原まで来たところで遂に善作は首をくくってしまった。
・・・夜になっても帰ってこない善作を心配したお綱は下屋敷を一人出た。
いやな予感がする。
屋敷からすぐ近くの松の木に善作が下がっていた。
その側には善作の書きつけが。
書きつけには本宅を尋ねた時の一部始終とお綱とその子供への
謝罪がつづられていた。
お綱は書きつけを手に怒りと哀しみに震えた。
「もはや、これまで」
お綱は屋敷に戻ると薙刀(なぎなた)を手にした。
元々武士の娘。家を守るよう父に渡された薙刀(なぎなた)だった。
お綱はまず子供達に手をかけた。四郎左衛門と芸妓を殺す覚悟を決めたのだ。
夫を殺せば御家断絶は必至。苦渋の選択だった。
白装束(死に装束)に着替えると脇差を差し、
二人の子供の首を風呂敷に包んで腰に巻いた。
お綱は本宅へ向けて走った。
本宅へ乗り込むと薙刀を振りかざした。
「四郎左衛門はどこじゃ」
子供の返り血で真っ赤になっていたお綱を見て芸妓は腰を抜かした。
お綱は芸妓に怨みの一太刀を浴びせた。
血まみれになりながらも逃げようとする芸妓をさらに後ろから斬りつける。
お綱は芸妓が息絶えても何度も斬りつけた。
ひとしきり斬った後、お綱は床の間に向かおうとした。
「四郎左衛門!」
床の間には芸妓の布団しか敷かれていない。
その時お綱の後ろから血潮があがった。
明石彦五郎がお綱を後ろから斬りつけていたのである。
不意をつかれたお綱はその場に崩れた。
「浅野様は城詰めだ。斬りたければ城へ行け。」
明石彦五郎は言った。
お綱はよろよろと薙刀を杖にし、本宅を出た。
「し、四郎左衛門・・・。」
その頃、明石彦五郎は芸妓の遺体を前に考えをめぐらせていた。
(ここでお綱にとどめを刺しておけば仕官できるかもしれない)
明石彦五郎は本宅を飛び出した。
一方お綱はすでに城の城門にせまっていた。
門番もあまりの異様な光景に息を呑んだ。
血まみれのお綱が物凄い形相で城門にせまってくるのだ。
その時お綱の背後から走ってくる男がいた。
男は刀を抜くと城門にせまるお綱を背後から斬りつけた。
明石彦五郎だった。
お綱は斬りつけられ、這いながらも城門に向かいつづけた。
門番はただただその光景を見ることしかできなかった。
お綱は城門の柱に手をかけ這い上がると「四郎左衛門・・・」とつぶやき、
そのまま息絶えた。
翌日福岡城内はこの話で持ちきりとなった。
武士の妻が我が子を殺し、夫を殺しに城まで迫ったのである。
四郎左衛門は本宅に戻り、葬儀が営まれた。
葬儀に来た藩士からは冷たい目で見られたことは言うまでもない。
葬儀が終わると四郎左衛門は熱病にうなされた。
夜になるとお綱が現れ四郎左衛門の首を締める。
本宅の近所からも夜になると火の玉が出ると噂がでた。
医者も手の施しようがなかった。
四郎左衛門は「許してくれ・・・許してくれ・・・。」と言いながら寛永7年1月に悶死した。
主を失い誰もいなくなると思われた本宅の次の主は浅野彦五郎だった。
名前も明石から浅野へと変わり、見事仕官したのである。
しかしやはり彦五郎の元にもお綱は現れた。
お綱は夜毎、彦五郎に自分の供養をしてくれるよう頼んだのだ。
彦五郎はこれに一切応じなかった。
それではとお綱はお寺に刀が埋まっているからそれを掘り出せば
さらに出世できると言った。
彦五郎は半信半疑でお寺の言われた場所を掘った。
するとなんとも見事な刀が出てきた。
翌日彦五郎はその刀を脇に差し、城に上がった。
驚いたのは藩士である。
彦五郎が差している刀は黒田家に代々伝わる名刀で
かつて盗まれたものであったからだ。
たちまち彦五郎は捕らえられ、盗人の容疑で拷問にかけられた。
お綱に教えられた、など信じてもらえるわけもなく、彦五郎は釜ゆでにされ処刑された。
その後お綱が最期につかんだ城門は「お綱門」と呼ばれ、触ると高熱にうなされる、
雨の日には幽霊が出るという不吉な噂がたった。
お綱が暮らしていた下屋敷は火の玉が目撃されるようになり、
一帯で火事が相次いだため人々は供養碑を建てた。
本宅はその後凶宅と呼ばれ、住む者もいなかったが、
熊本から来た「清識」という僧が観音堂(後の長宮院)を建て、
お綱とその子供の供養をしたという。
「怪談お綱門」
福岡城の東御門か扇坂御門のあたりに
その「お綱門」はあったと伝えられています。
お綱門の場所に関しては諸説あります。
大体扇坂御門から東御門の間にあったろうとも
言われていますが、どちらにせよ、
警護が強固であった場所で、重傷を負ったお綱が
城内に忍び込むことができたかどうか。
本当にここにあったかどうかはわからないのです。
(城内に忍び込んだなら扇坂御門で、
そうでなければ東御門ではなかろうかと)
お綱門の朽ち果てた柱に触ると熱病にうなされるとか、
雨が降ると幽霊が出るとか、
柱の一部を持ち帰り、仏壇に供えて祈ると
願いが叶うという言い伝えがありました。
お綱さんが芸妓を殺したという屋敷はその後怪異が起こると、
肥後の国(熊本)から来た「清識」という僧が
観音堂を建て、お綱さんとその家族の供養をしたという。
後の真言宗長宮院である。
明治になって福岡城は24連隊の兵営になった。
歩哨がこのお綱門のあたりに立つと倒れて眠ってしまうとか、
気味の悪い声で呼びかけられるとか、
門のあたりの小石を上司の枕元に置いておけばうなされる等、
噂が立ちお綱門を長宮院に移した。
大正のはじめごろ、この長宮院の敷地に大乗寺が移転。
大乗寺の寺域にお綱さんを祭る「お綱堂」が建立された。
(縁切のご利益で有名だったという)
またお綱門は福岡城から大乗寺の脇門
(現在の家庭裁判所の西門)におかれた。
寺は太平洋戦争で焼失、お綱堂は残ったが、
お寺は事実上廃絶し、跡地整理の際に
お綱堂は取り壊された。
そしてその跡地に家庭裁判所が建ったのである。
男女の仲をとりもつ家庭裁判所になるというのは
なんとも皮肉な話である。
お綱堂はお綱大明神として箕子(すのこ)町の
長宮院と同じく真言宗の眞光院に祭られた。
福岡県二丈町 眞光院
(現在は二丈町に移転した)
ご住職にお話を聞いた。
眞光院は戦後の焼け野原の中、いち早くお寺を建て直した。
長宮院、大乗寺も焼けてしまったため、
長宮院と同じく真言宗の眞光院が地元の
「お綱さんは箕子町で供養する」との強い意向を受け、
ここで祭ることとなった。
平成元年に大手門から二丈町に移転することが決まり、
箕子町に打診したところ、
現在の箕子町では十分な供養ができないとの判断から
お綱大明神の管理・移転が認められた。
十数年前までは「お綱門」は芝居として公演されていた。
教科書にも載ったほど地元では有名であった。
三十数年前、お綱さんの針箱を持っているという人から、
怪異な事があると寺に持ち込まれ、
供養の後、焼いたということがあった。
さらに下屋敷の跡地付近に住む人からも
怪異の訴えがあり、ご供養した。
毎年8月18日がお綱大明神の大祭であったが、
現在は毎年8月21日にとり行っている。
さらに毎月3日はお綱さんの日であるとの事。
(お綱さんが亡くなったのが3月3日であるため)
お綱堂(お綱大明神)
左の看板には「お綱門」の伝説説明が載っていた。
悪縁を祓い、良縁を結び、家庭崩壊の危機の人が
ここで祈ると家庭円満になったという。
お綱親子地蔵尊
眞光院にはお綱さんとその子供お妻・小二郎の位牌がある。
戦時中は疎開に持ち出して焼けずに残ったのだという。
「お手を合わすときは、その仏様がどうやったら成仏できるか
考えながら手を合わせてください」
ご住職の言葉が胸をついた。
お綱さんとその子ども達の位牌。
福岡市東区馬出(まいだし)
お綱さんとその子供が最後に暮らした下屋敷では
その後火事が相次ぎ、お綱さんの祟りと恐れられ、
下屋敷の近くにお綱さんとその子供のお墓が建立された。
現在は馬出の路地裏にお綱さんとその子供のお墓が残っています。
中央がお綱さんの墓。
右からお綱さんの墓。
次に小さな墓がお綱さんの長男、
小二郎(一説には小太郎)の墓
その次が長女、お妻の墓である。
この墓のある場所は下屋敷の跡地だといわれている。
さらにこの近くには「お綱ヶ池」と呼ばれる池があり、
お綱さんの怨念が乗り移っており、
池の魚を取ると祟りがあると信じられていた。
近年になって埋立てられたという。
円通院義操妙綱大姉
お綱さんの戒名である。
ちなみに
小二郎・・・秀善清先童子
お妻・・・芳善玉露童女
浅野四郎左衛門・・・義翁宗忠居士
2014年
お綱さんのお墓を訪れました。
変わらずお綱さんのお墓としての案内板はありません。
正定寺
ここにはお綱さんを斬りつけた明石彦五郎(後に浅野彦五郎)の墓がある。
お綱さんの死後二年後に彦五郎は釜ゆでで処刑されてしまっている。
後日再び正定寺を訪れた時、意外なものを発見した。
「義翁宗忠居士」
これはお綱さんの夫、浅野四郎左衛門の戒名である。
なぜお綱さんを斬った浅野彦五郎の墓にその卒塔婆があるのか。
正定寺のご住職にお話を聞いた。
するとなんとも意外な答えが。
浅野四郎左衛門と浅野彦五郎は同一人物なのだという。
浅野彦五郎(浅野四郎左衛門)福岡城の門番の墓で、
お綱さんが城に迫った時にお綱さんを手打ちにした手柄で仕官した。
四郎左衛門はお綱さんのご主人ではないのだという。
長い年月で二通り名前のある人物がいたので
ごちゃまぜになったのかもしれない。
では四郎左衛門がお綱さんの夫でないとすると誰の夫だったのか?
人物名 | 間柄 | 伝説での行動 | 実在 |
お綱 | 「お綱門」伝説の主人公。 黒田家家臣の久野次郎左衛門の娘 浅野四郎左衛門の妻 |
子供のお妻・小二郎を殺し、 芸妓を殺害。 福岡城の門前で斬りつけられ死亡 |
○ |
浅野四郎左衛門 (麻井・明石の説有) |
お綱の夫。 黒田忠之に小姓から家臣に取立てられる。 |
妻のお綱と子供達を放って芸妓と本宅に住む。 | ? |
明石彦五郎 (浅野彦五郎) |
浅野家に居候の浪人。 | 肥後の国から来た浪人。 (一部伝説では福岡城の門番) お綱を殺害。(または重傷を負わせる) その後浅野姓を名乗り仕官する。 釜茹の刑により死刑 |
○ |
芸妓 | 大阪で身受けされた芸者。 黒田忠之に見初められ福岡に来る。 |
お綱に殺害される。 名前が不明。(一部伝説でウヌメ) 戒名・墓がない。 |
? |
黒田忠之 | 福岡藩主 | 芸妓を浅野四郎左衛門に下附。 後に「黒田騒動」で家臣栗山大膳に訴えられる。 |
○ |
お妻 | お綱と浅野四郎左衛門の娘 | お綱に殺害される。四歳。 | ○ |
小二郎(小太郎) | お綱と浅野四郎左衛門の息子 | お綱に殺害される。二歳。 | ○ |
善作 | 浅野四郎左衛門の家の奉公人 | お綱と子供達の現状を浅野四郎左衛門に 訴えるが追い出されて 箱崎の松原で首を吊って自殺。 |
? |
栗山大膳 | 黒田家の家臣 | 芸妓を手離すように黒田忠之に進言。 後に幕府に黒田忠之を訴える。(黒田騒動) |
○ |
黒田家分限帳によると「浅野彦五郎」の名前が慶長の時代のもの(1596年-1615年)にあった。
(平松金十郎組で八百石もらっていた)
「お綱さん事件」が起こった年(1630年)を考えるとどうでしょうか。
この人物が生きていたとしてお綱さん事件の時はかなり高齢だったのではないだろうか。
正定寺の記録だと浅野彦五郎が死んだのは寛永8年(1631年)2月19日である。
さらに記録から考えると浅野彦五郎はお綱さん事件の時には仕官しており、
「お綱門」伝説の記述と大きく食い違う。
狂言・歌舞伎・読み物の「お綱さん」の方と
史実がかなりごちゃごちゃになっているようである。
史実を元に今の所わかっていることは
寛永7年(1630)3月3日お綱さんは
何だかの理由で子供二人を殺害し、福岡城に迫った。
門番だったのか偶々そこにいたのか
浅野彦五郎がお綱さんを発見して殺害。
寛永8年(1631)2月19日に浅野彦五郎が死去。
(芸妓・四郎左衛門については墓も記録もない)
その他のお綱伝説
お綱さんが薙刀(なぎなた)を持って走った後には
草も生えなかった。
お綱さんが薙刀を振りかざしたので薬院の竹は短い。
子供を殺害前に犬をも殺した。
お綱さんは右手を切り落とされた。
お綱門(お綱さん)の怪談は博多でも
最も凄惨な怪談として語り継がれ、
「筥崎釜破古」には同じお綱門の伝説が
七通りもあります。
お綱門の写真を入手したため追記
古葉書でありました。お綱門。
ら大乗寺の脇門に移された時の写真と思われます。