木崎原古戦場跡
元亀3年(1572)5月3日夜、三ツ山城(小林市)を出発した
伊東軍3000余人は2軍に分かれ、4日未明、
まず1軍が加久藤城を攻め落とそうしたが失敗し、
この木崎原の地に還り、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。
しかし肥前の島津軍劣勢との判断から決戦の機会を失い、この間に
敵襲のノロシにより吉田、馬関田、吉松郷及び北薩の各地から
急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えた古戦場跡です。
島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は三州制圧の夢を果たし、
一方伊東氏は、居城都於郡を追われ衰退の一途をたどるという両氏の
明暗を分けた一戦であったため、古来世に「南九州の関ヶ原の戦」といわれています。
木崎原古戦場跡の敷地内にある寄贈された像
ちょっと怖いかも。
木崎原合戦では、1日で伊東軍560余人
島津軍260余人の戦死者が出ましたが
島津義弘はこの六地蔵塔を建立して、
敵・味方関係なく戦死者の霊を供養しました。
六地蔵塔とは変わっていますね…。
石塔に地蔵が六体彫られています。
元巣塚。
慶長18年
当時、飯野地頭であった元巣は木崎原古戦場戦死者の
霊を弔うと共に自らの死後も案じたものと思われます。
また度重なる地震によって崩壊した塚を、寛政9年(1797)に
修復したことを示す寄進塔もあります。
なお元巣は元和2年(1616)9月、73才で死去しています。
三角田
木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を
繰り返したところで島津義弘が伊東軍の将、伊東新次郎を
槍で突き伏せ、また、敵中深く進みすぎた義弘を退かせるために
盾となって久留半五左衛門、遠矢下総守、富永刑部、野田越中坊、
鎌田大炊之介、曽木播磨の六重臣が討死したのもこの場所です。
敷地内にあった石碑。
木崎原古戦場跡の…キャラでしょうか?
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