ホネカミ地蔵
寛永15年(1638)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は明和3年(1766)7月15日有馬村願心寺の
注誉上人が、この戦乱で斃れた(たおれた)
人々の骨を敵・味方の区別なく拾い、霊を慰めた
地蔵尊塔である。
八波則吉先生は「骨かみ地蔵に花あげる3万人も
死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」
と、うたっています。
「ホネカミ」とは「骨をかみしめる」の意味で、
その事から「自分自身のものにする」、更に
「人々を済度する」(助ける、救う)と、
理解すべきだと言われてる。
史跡 原城跡
原城は明応5年(1496)、領主有馬貴純(8代目)が
築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。
城は県下最大の平山城で、周囲3キロメートル、
41万平方メートルの規模をもち、有明海に面して
南東に突出した岬を利用した要害である。
城構えは本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで
構成されている。
慶長19年(1614)島原藩主有馬直純(14代目)は
日向国県城(宮崎県)に転封され、元和2年(1616)
松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。
松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)
からの島原城(森岳城)の築城にあたり構築用の石材として
この城の石垣等を運んだものと見られている。
松倉氏の藩政は、領民へ過酷な賦役と重税を課し、
キリシタン弾圧など、きびしく行ったため、
寛永14年(1637)10月25日に天草四郎時貞を盟主として
「島原の乱」が起こった。
原城は同年12月から寛永15年2月28日まで、
領民(天草の領民を含む)約3万7千人(2万7千人ともいわれている)
が88日間たてこもった「島原の乱」の終焉の地である。
痛ましき 原の古城に来て見れば
ひともと咲けり 白百合の花
新村 出
原城跡に入ってすぐある慰霊碑
さらに上がると広場に出た。
キリスト教徒が立てこもった城跡の広場にも
やはり慰霊碑があった。
城跡からは海も臨める。
原城跡の碑。
天草四郎像。
広場にある十字架。
天草四郎時貞の墓碑
天草四郎
小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、
本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとか
フランシスコなどどいわれています。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かった
といわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、
詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで
一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、
圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。
四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首に
されました。
この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中に
あったものをこの場所に移したものです。
さらにすぐ近くににも慰霊碑が。
こちらは原城跡を攻めた側の犠牲者のもののようです。
訪れた時はまだまだ暑い時期でしたが、
広場はなぜかひんやりとしていました。
ここでの犠牲者は27000人~37000人と言われ、
女老人子供関係なく皆殺しにされ、火も放たれました。
また近年の発掘調査では遺体に大きな石が置いてあったといい、
当時のキリシタンただ殺したのでは復活すると思われていたことの
裏付けとなっているようです。
空堀を発掘したところ多数の人骨が発掘される。
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