放虎原処刑場跡

放虎原処刑場跡 心霊スポット
放虎原処刑場跡

放虎原処刑場跡
放虎原処刑場跡
放虎原殉教地
天文18年(1549)宣教師フランシスコ・ザビエルにより、
日本にキリスト教が伝わりました。
大村では領主大村純忠が洗礼を受け日本初の
キリシタン大名となり、領内の布教を強く支援したことから、
領民のほとんどがキリスト教に改宗し、大村はキリスト教一色になりました。
しかし、豊臣秀吉、続く徳川幕府の政策により次第にキリスト教の禁教が厳しくなり、
宣教師や信者への弾圧は日増しに強くなっていきました。
大村藩でもキリスト教を禁止したことにより領民は
キリスト教から仏教への改宗を迫られ、
厳しい取り調べも行われていきました。
島原の乱から20年後、領内にはキリスト教の信者が
一人もいなくなったと思われていた明暦3年(1657)、
郡村を中心として隠れてキリスト教の信仰を続けていた
人たちが発覚する事件が起きます。
事の起こりは郡村の百姓兵作が長崎の知人を訪ねた際に
「矢次の里に年が12、3の少年がいて萱瀬の岩穴に
キリシタンの絵を隠し持っている。天草四郎にも
勝るとも劣らないとの噂である。」ともらしたことです。
この話が長崎奉行に伝わり、大村藩の潜伏キリシタンの捜索が
始まりました。
捜索の結果、603人もの人々が捕まり、キリシタン弾圧史上、
まれに見る潜伏キリシタン発覚事件となりました、
事件の中心が郡地区であったことから「郡崩れ」と呼ばれています。
あまりの逮捕者の多さに大村藩だけでは対応できず、
周辺の藩にも分散して預けられ、取り調べが行われました。
逮捕者のうち406人が打ち首となり、そのうち131人が放虎原で
処刑されました。信者の首は、見せしめとして街道に面した
獄門所に約一ヶ月間晒されました。
復活することを恐れ、首と胴は別々の場所に埋められ、
首塚・胴塚として伝えられています。
この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が
行われていくこととなります。
処刑の行われた場所は正確には分かりませんが、信者の方々によって、
この場所に殉教顕彰碑が建てられています。
放虎原処刑場跡2
殉教顕彰碑の表
放虎原処刑場跡3
殉教顕彰碑の裏
放虎原処刑場跡首塚
首塚
処刑したキリシタンの復活を恐れ、首と胴体を別々の
場所に埋めたという。
昔はキリシタンは首を斬ってもよみがえると信じられていたそうだ。
放虎原処刑場跡胴塚
胴塚
それぞれ数百メートル離れている。
放虎原処刑場跡獄門所跡
獄門所跡
江戸時代の牢屋は衛生状態も悪く、病気の蔓延など
刑の執行前に牢屋内で囚人が死んでしまうことも
多かった。
牢死78名
放虎原処刑場跡妻子別れの石
妻子別れの石
この場所は、江戸時代の大村藩処刑場(斬罪所)の入り口に当たり、
明暦3年(1657)の潜伏キリシタン大発党事件である「郡崩れ」に
関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。
この事件であ、603人が検挙され、翌年の万治元年に斬罪406人、
牢死78人、永牢20人、赦免99人となりました。
大村で処刑されることとなった131人は、大村牢から200人の武士の
厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。
この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、
水盃を交わした場所がここであったといわれています。
言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙で
ぬれたので、一名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。
斬罪所はここから800メートルあまり北にあり、昔はそこまで
細い道が真直に続いていたといわれています。

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