小仏といえば渋滞で有名な小仏トンネルの地名です。
かつて甲州街道はここを通っていました。
そして小仏には小仏関がありました。
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関とも
よばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に
一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の
甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降
四人の関所番が配備された。
関所の通貨は、明け六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)
までとし、しかも手形を必要とした。
鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を
番所の前にすえられた手形石にならべ、
もうひとつの手付き石に手をついて許しを待ったという。
特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして
重視し厳しくとりしまった。
抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の罪が
課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって
自由な面もあったらしい。
明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。
この絵図は、関所番だった4家のうち、
川村家に伝わっていたものです。残念ながら
戦災により焼失し、現存していません。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が
置かれていました。北に山、南に川という地にあり、
当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
そしてこの東門から進んだ場所に「仕置場」がありました。
関所破りの罪人はここで処刑されていた。
現在仕置場があったところらしき場所は住宅が並んでいました。
付近にはお地蔵様などが点在しています。
もしかしたらこのうち一つが首切り地蔵かも…