東京都新島村にある流人墓地。
日蓮宗 長栄寺
流人墓地
寛文8年(1668年)から明治4年(1871年)の200余年の間に
新島に流された流人は、1333名である。
階層別には、武家、百姓、町人、神官、僧侶、無宿者に至る
あらゆる階層は流されている。
この中で赦面になった者は、489名であるが、
流刑中に亡くなった者は、655名に達し、
そのうち死刑、獄死以外の流人のほとんどが、
この墓地に埋葬されている。
流人墓地は、となりの共同墓地よりも一段低くなっていて、
当時は植樹によっても区別され、通り抜けはできなかった。
流人墓地へ通じる道は、不浄道と呼ばれ、墓地の西北側に
今も残っている。
流人が在島中、島民の教育、医療、諸技術の普及や
民族芸能など、島民の生活や文化に貢献した流人も多いが、
日々の憂悶を酒や博打にまぎらわせた者も少なくなかっただろう。
その流人が、生前好んだものを仲間が酒樽やサイコロを
墓石として刻み、その霊を慰めているが、村人は今なお、
この墓地に花を手向け、流人の昔を偲んでいる。
流人墓地
島民の人々に大事に手入れされ、綺麗にされている。
新島では嫁入りすると、朝いちばんにお墓の手入れをしに行く
という習慣があったそうである。
流人墓地の珍しい墓石のひとつ。
お椀とサイコロ。
上がお椀で下の方形のものがサイコロである。
博打好きの流人の墓と伝えられている。
流人墓地の珍しい墓石のさらにもうひとつ。
酒樽型の墓石である。
お酒が大好きだった流人の墓であったと伝えられている。
流人墓地にはこんな伝説もある。
新島炉ばなし/武田幸有著に、
流人墓地の中に3つ並んだ墓があり、
この墓をあばくと目がつぶれるという言い伝えがあり、
ある流人がこの墓をあばこうとして失明したという話が
掲載されている。
お墓の一角には流人の冥福を祈ってか、
南無妙法蓮華経のヒゲ題目があった。
流人墓地ではないが、島の文化に寄与したとして
共同墓地にお墓のある上木甚兵衛、通称飛騨ん爺の墓がある。
上木甚兵衛墓及び三島勘左衛門石像
上木甚兵衛は飛騨高山の町名主でしたが、
幕府の検地政策に反対し(大原騒動)
安永4年(1775)3月、62歳のとき新島に流罪となりました。
寛政10年(1798)8月19日、85歳でこの地に没しました。
三島勘左衛は上木甚兵衛の次男で、
父の流罪後その看護のため、江戸に出て
奉行に嘆願、寛政3年(1791)に渡島しました。
以後8年間父の看護を行い孝養を尽くしました。
父の死後、墓と自らの石像を造って島を離れました。
石像の胎内には、法華経八巻を納めたといわれています。
像の首から上は新たに補修されたものです。
なお、勘左衛門は在島中に見聞した事をもとに、
「天明水滸伝」や「伊豆七島風土細覧」などを著しています。
島の観光名所にもなっているので観光客も多い。