建碑由来記
旧幕宝暦時代前後には連年凶作打続き農民は
窮乏し生計困難を極めたる事ありき
宝暦7年(西暦1757年)は夏季寒冷のため
稲は稔らず凶作に見舞われ人心は不安浮説は流行し
遂に城端を中心よし騒櫌事件を惹起するに至れり
農民の要求は單に年貢米の減免なりしも
騒櫌の罪は免れるに能ばすその集合を発案せる当村は
その責任を負わされ村内男子の殆んど全部は拘禁され
その一部は釈放されたるも12名は牢死し
3人は磔刑に処されるに至れり
農民の要求は容ねられしもこの犠牲者に
対する悲痛なる哀悼は禁ずる能はず
碑を建て冥福を祈りたるもの此之碑也
石に刻める三法名は磔刑者のものなり
爾来二百有余年追善供養怠りなく
近年磔刑者並に牢死者の俗名を刻し
哀悼の意を新たに建碑したるものこの副碑也
碑文
宝暦7年(1757年)12月27日
源右ヱ門・又吉・三右ヱ門は金沢の牢から
出世の地・北市の郷へ曳かれそれぞれの
自宅の前ではりつけにされた。
「いかにもわれらが張本人なり。政道の
無慈悲むざん忍びがたくわれら死なば所
よろしくなるべし子孫諸人のためにもよろしかるべしとて…」
かれらは刑柱の上から右の遺言を告げ、
静かに処刑の槍を迎えた。
第一の槍が三右ヱ門の脇腹へ向けられたとき、
刑場をとりまく百姓たちから念仏とも喊声とも
つかにわめきが涙の雨と共にあらしとなって
北市の空をふるわせた
この碑文は井波町大宮司出身の大作家岩倉政治氏の
名著「田螺のうた」の中から感動的な文章の一節を
作者に抜粋して頂いて制作したものであります。
小説の舞台は宝暦7年(1757年)の秋北市村を
忠心とした南砺地方でこの頃の農村は悪天凶作の上に
加賀藩の年貢米の取立がきびしく農民は飢餓の
どん底に苦しんでいました。
その時北市村の源右ヱ門、三右ヱ門、又吉達が農民の
苦難を見るに忍びず死を覚悟して決起し
悪政への一次抗議行動を展開しました。
その結果藩は年貢の減免などの政策で譲歩しました。
しかし北市村の源右ヱ門、三右ヱ門、又吉の3人は
主謀者として磔刑となり他に12名の人達が牢死させられました。
私達はこの犠牲的で英雄的な行動の中に祖先の人びとの
偉大さと熱い郷土愛とを感ずるのであります。
この小説「田螺のうた」がふるさとの人びとに
読みつがれ高祖への深い感謝の念と村興しの活力とを
生みだす源となることを願いつつこの一節を刻み
文学碑として建設するものであります。
平成8年3月
「宝暦騒動」の文学碑を建てる会
南無阿弥陀佛の念仏碑
供養碑
宝暦騒動三者追善
磔刑
源右ヱ門 三右ヱ門 又吉
牢死
次郎ヱ門 傳右ヱ門 源四郎
喜作 掃部 孫作
清六 善四郎 九郎兵ヱ
吝兵ヱ 彦右ヱ門 ?兵ヱ