新府城跡。
看板もあり、わかりやすい。
城跡にはほとんどお決まりだが、落ち武者の霊が出るという。
筆者は別の場所から上りましたが、
藤武神社の石段を上がると
その裏手が本丸の跡のようです。
神社の裏手には石碑や祠がたくさんある。
史跡 新府城跡
新府城は武田勝頼によって天正9年(1581年)2月に築城着手され、
その完成したのは同年12月であった。それまで甲府躑躅崎の
館城にあった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する
以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正10年
3月3日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を
指して落ちた悲劇の城跡である。本城は南北600米、東西550米、
外堀の水準と本丸の標高差80米。
型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西90米、
南北120米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり
大手に続く。堀は北西から北、北東へと巡り北方の高地からの
敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な2ヶ所の「出構え」
が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で
防御のために工夫されたもので特に「出構え」は鉄砲のような
新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
新府城本丸跡
奥には柱と石祠・石碑が並ぶ
石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後
当地方民が国主の恩徳を追慕し
新府城守護神・藤武神社の北西の地を
相して石祠を建立し、勝頼公の
心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し
毎年卒去の当日は慰霊祭を執り行い
「お新府さん」と呼び藤武神社とともに
地元民から親しまれてきた。
勝頼神社建立の時期は、貞享、元禄(1684年)の頃と
言い伝えられている。
こちらは家臣を祀った石碑のようだ。
さらに奥にあった石碑。
歴史的にはここが戦場にはなっていないようだ。
落ち武者の霊はちょっとおかしいかも…。