長篠と設楽原を結んだ鳥居強右衛門
天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を
率いて、長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか500人の兵が
長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、
落城寸前となってしまった。
この時、城主の命ををうけた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに
城を抜け出し、家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向かった。
家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、
「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向かった。
かんぼう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、
城中へ戻る途中、有海の篠場野で武田軍にとらえられた。
強右衛門は、武田方から「”援軍はこない”と言えば助ける」と言われ、
城中が見渡せる場所へ連れてこられた。
城兵を前にして強右衛門は、「援軍は来る」と大声で叫んだ。
勝頼は、「勇気の士」としてその行動をたたえたが、
武田の将兵によって、この地で磔となった。
この強右衛門の行動がきっかけとなり戦いの舞台は、
長篠から設楽原へと移っていった。
鳥居強右衛門磔死の碑。
田んぼの真ん中に見えてきた。
やや雨も降ってきている。
林のなかにぽつんと石碑があった。
鳥居強右衛門磔死之址
とある。
落合佐平次が残した強右衛門の磔姿。