義烈良民の墓(裸森処刑場跡)

心霊スポット

義烈良民の墓(裸森処刑場跡)
秋田県にある小高い丘の墓地。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)2
山道には看板が。
義烈良民の墓
延宝5(1677)年、山本一族と呼ばれた国元の重臣
三浦伊右衛門等は、江戸に在府する矢島三代領主
生駒親興(旗本交代寄合)に、窮乏する財政立て直し
策として、矢島領の拝領石高八千石を三万五千石に
水増した年貢の加増を進言しました。厳しい再検地に
耐えかねた百姓たちは、国元の家臣の子助川治朗右衛門、
金子久左衛門等とともに、江戸屋敷へ検地の無効と
年貢の復旧を訴えました。ところが山本一族の追放を
画策していた小助川等は、訴状をすり替え、
百姓たちの不満は山本一族の悪政によるものと訴えたため
親興は山本一族には切腹を、小助川、金子には代官として
領内支配を任せたうえ、百姓たちをなだめるよう命じ、
江戸家老の市橋彦兵衛を矢島城代として派遣しました。
小助川等は帰国後、年貢の復旧がかなったと百姓たちを
欺き、山本一族を討ち取らせました。さらに市橋も
小助川等とともに水増しした年貢の上納を強要したため、
困窮した百姓たちは相次いで離村していきました。
こうしたなか、延宝7(1679)年、下笹子村(由利本庄市鳥海町下笹子)
の肝煎仁左衛門と修験者和光院が立ちあがり、親興に窮状を
直訴、もとのとおり拝領石高八千石(実石高一万五千石)とする
朱印状を得ましたが、これを知った小助川、金子等は、
領主の命に背く謀反人と偽り、仁左衛門等は召し捕られることとなりました。
延宝8(1680)年7月25日、金子を大将とする家臣等総勢400名が
下笹子村の仁左衛門宅を急襲、和光院以下4名が捕えられました。
逃れた仁左衛門は、同志とともに再び江戸へ向かいましたが、
途中、天童宿(山形県天童市)で矢島への帰途にあった小助川と
遭遇、朱印状を奪われたうえ、一行のうち6名が取られられました。
そして8月23日、和光院以下10名は、ここ裸森で処刑されました。
和光院は、生き埋め、3名は打首、6名は磔でした。
一方、秋田領仙道村(雄勝郡羽後町)に逃れた仁左衛門は、
閏8月15日、仙道村槍山で仲間の裏切りにより討たれ、最期を遂げました。
妻が密かに持ち去った首は、下笹子村間木ノ平に埋められ、
のちに人々はそこに青田神社を建立し、現在も仁左衛門を
田農神として崇め、祀っています。
その後、百姓たちが離村した矢島領の田畑は荒廃し、国元の家臣等は、
新庄村(由利本庄市矢島町新庄)の肝煎与市右衛門に百姓との仲裁を
依頼しました。そして延宝9(1681)年、仁左衛門が親興から得た
朱印状と同じ、実石高一万五千石を互いに確認し、江戸時代初期における
県内最大の「延宝の百姓一揆」が終わりました。
後世、人々は、和光院以下処刑された百姓たちの死を哀れみ、
浄財を募ってここ裸森に碑を建て「義烈良民」の大文字を刻み、
長くその道徳を伝えています。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)3
櫻庭荘九郎碑
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)4
義烈良民の墓
小高い丘で見せしめになり、街道沿い、
川がそばにある…
処刑場の特徴を示している。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)5
周辺は少し広場になっています。
現在は墓場。
処刑場跡はそのまま忌み地となることが多かったため、
墓場となったり、火葬場になったりする場合がある。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)6
ここで生き埋めの刑に処せられた和光院のお堂があった。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)7
お堂内部にはおそらく和光院のお墓と思われる石碑が。
義烈良民の墓(裸森処刑場跡)8
そしてお堂のすぐそばからは謎の墓碑が地中から…

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