宗吾霊堂
実はここがかつての公津ヶ原処刑場跡である。
宗吾霊堂ホームページより
我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内 惣五郎)様は、
今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を
4代将軍家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、
宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになり、寛政3年(1791年)、
堀田 正順(まさなり)公は徳満院の院号と石塔一基を寄進しました。
文化3年(1804年)には堀田 正時(まさとき)公が惣五郎様の子孫に田高5石を供養田として与えました。
長い間、宗吾様をまつる堂宇の建立は許されませんでしたが、
現在は本堂・客殿・霊宝殿・仁王門・鐘楼堂・宗吾様の御生涯を
66体の等身大の人形により再現した日本有数の大パノラマ式の
宗吾御一代記館等の建造物があり、信仰に参詣に多くの人々の人気を博しています。
宗吾父子の御墓
処刑されたのもこの場所であるとか
宗吾父子の御墓
承応2年(1653年)8月3日
受刑され、この地に宗吾様と4人の
お子様が合葬されております。
身代わり地蔵尊
宗吾霊堂
かつてここが処刑場であったことなどわからないほど、
綺麗に整備され、供養されています。
全国的にもこういう処刑場跡は珍しく、
いまは処刑場跡というよりもパワースポットと言っても過言ではありません。
全国の処刑場跡がこのような供養を受けられるよう願ってなりません。