供養塔
この地は元寇防塁跡だり、元の国が攻めてきたとき(1274年)の
一つの戦場でした。また江戸時代初期(1618年)、黒田長政の
命により松が植えられこの一体を百道松原と呼びました。
江戸時代末期、安政のころ(1855年頃)より西新藤崎などに
居住する武士や商人のお墓が造られはじめたようであります。
明治・大正昭和と時代の変遷とともに特に戦後は家族制度も
家族構成も大きくかわり、無縁となるお墓も多くなってきて、
お参りに来られる方々も少なく、墓地は荒れてきました。
平成20年にこの「西新1号墓地、西新ア号墓地」に
お墓をお持ちの有志の方々が、何とかこの墓地を
気持ちよくお参りできるようにしたいと「百道墓地管理会」を
立ち上げました。
(このとき2つの墓地におよそ125基の墓碑がありました)
「管理会」は墓所をお持ちの方々を調査し、会員と
なってもらいました。
どうしても祭祈者がわからない無縁と思われる方々の墓碑を、
この供養塔のまわりに集め、管理会で供養することといたしました。
たくさんの墓碑が寄せられている。
現在は西新墓地である。
墓地の一角に不思議?な場所がある。
塀で囲まれた地。
中には地蔵が一体安置。
説明も何もない。
見ようによっては無縁墓地の供養とも思えるが…。
こちらは福岡監獄で死刑になった死刑囚の供養の為、
処刑場跡に建立された地蔵なのだという。
と、いうことはここは…
なんと動画を撮影していたのですが…
ファイルが破壊されていました。