桝木屋跡
慶長(1607)年、福岡藩は、この付近に藩内の穀物を量る桝の製造、
検査を行う桝木屋を設置しました。
年貢米を「納め桝」、家臣の俸禄給を「御国町桝」と
呼び、領内に二種類の桝を定めていました。
その後、寛文9(1691)年に江戸幕府は
各種まちまちの桝の大きさを統一し、「京桝」を公定桝と定めました。
福岡藩はこれまでに従い「京桝」の使用を領民に命じましたが、
領内の一部では「納め桝」が幕末まで残っていました。
看板の後ろ付近には古い墓碑らしきものが。
現在は公園です。
墓碑?が公園内にぽつーんとありました。
明治時代の地図。
枡木屋処刑場では江戸時代には桝木屋の獄という
牢屋があり、幕末の勤王志士も捕えられここに
投獄された。
そして今は住宅街となっているが、処刑場は
この場所から海の方向に行ったところにあった。
勤王派弾圧で処刑された月形洗蔵ら14名が斬首されている。
桝木屋処刑場跡の動画はこちら