松風の関処刑場跡

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松風の関処刑場跡
松風の関
古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ唯一の街道が通り、
その中で井戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。
平家物語に「寿永2年…菊池次郎高直は都より平家の
御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、
肥後の国にひっこもり…」とあり、ここに出ている
大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。
寿永2年(1183)当時既に関所として菊池氏によって
守られていたこと。七世紀に作られた古代官道に
関所を置いたものであろうと言うこと等が解ってきています。
真弓廣有公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)頃
ではないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。
その後戦国時代は合戦の度に肥後領になったり筑後領になったりしたが、
戦国時代の終わりに田中吉政が、筑後国32.5万石の領主として
柳河城に入ると慶長6年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、
それ以後、筑後領となり現在に至っております。
松風の関と呼ばれたこの地は古くから関所があり、
やはり関所破りなど法を犯した者は処刑されていた。
地域の人は処刑された人たちを憐み、首切り地蔵を建立した。
松風の関処刑場跡2
首切り地蔵のあるこの場所に行く道は現在使用されておらず、
道なき道を進み、やっとたどり着いた。
道を教えていただいた人も、藪がひどいから行けないかも…
と、おっしゃっていました。
松風の関処刑場跡3
中には七体の地蔵がありました。
どれも頭は後から石をのせたような感じの首。
本当に「首切り地蔵」だったのではないでしょうか…
険しい山道でしたので、動画の方で確認してみてください。


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