観光地として有名な飯盛山。
ここは白虎隊の自刃の地である。
会津藩殉難烈婦碑
この碑は、会津戊辰戦役で自刃又は
戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため
昭和3年4月旧藩士山川健次郎氏
(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家に
よって建てられた顕彰碑である。
白虎隊とは会津藩の16歳~17歳の少年兵である。
会津戦争に備えて結成された。
幼少組には13歳の少年もいたという。
幕末に新政府軍に攻められた幕府方だった会津藩。
白虎隊はなんとかこの飯盛山に逃れた。
しかし飯盛山からは鶴ヶ城の燃える姿が見えた。
もはやこれまでと白虎隊20人は自刃。
うち1人は助かったが19人は死亡。
燃えていたのは鶴ヶ城ではなく、城の周辺の屋敷であった。
少年武士慰霊碑。
墓石が並ぶ。
白虎隊士の墓
正面の墓は、明治元年(1868)の戊辰戦争において
飯盛山で自刃した19士の墓です。
8月23日(新暦10月8日)自刃した隊士の遺骸は、
西軍により手をつけることを禁じられていました。
約3ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に
運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。
現在の形に19士の墓が建てられたのは明治23年で、
2度にわたり墓域が拡張されました。
右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった
白虎隊士 31名の墓です。
左側の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び
新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士
(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
線香が絶えないという。
この飯盛山の頂上付近には白虎隊のお墓の他、
石仏・石碑などがたくさんある。
若すぎる死を悼んでのことである。
飯盛山で自刃した白虎隊士の屍は戦後もしばらく
風雨にさらされていたが、滝沢村牛ヶ墓肝煎(世話人)
吉田伊惣次氏がこの惨状を見て村人の協力を求め
夜ひそかに遺体を飯盛山と同村妙国寺に仮埋葬したが
西軍のとがめを受け後自発的行為とわかり放免された
明治17年67才で没した
頂上から少し歩くと「白虎隊自刃の地」がある。
白虎隊士石像がのぞんでいる方向が鶴ヶ城です。
ここには白虎隊が城をのぞむ姿の石像が。
慶応4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、
年齢が16~17歳で構成された士中二番隊の
白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて
進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、
敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門を
くぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、
激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば、
鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして
帰城を主張する者もいた。
しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受ける
ような事があれば、主君に対して大変申訳なく、
祖先に対しても申訳ない。この場は潔く自刃し、
武士の本分を明らかにするべき」との決断に
はじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に
向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
なお、鶴ヶ城開城はその一か月後であった。
この場所からは城が小さく見える。
さて、飯盛山であるが、心霊写真が撮れることで
有名であるらしい。