高山市にある桐生万人講
桐生河原万人講獄門台
桐生万人講御仕置場
色々な呼び名があるがここは江戸時代処刑場であった。
桐生町万人講
延宝3年(1675)、数万の餓死者をここに埋めたもので、
万人抗と呼び、後万人講と書くようになった。
元和元年(1681)盲人色都が餓死者の供養塔を建てた。
笠のある大きな石塔は、水難除けの祈りをこめて
文化14年(1817)法華寺日在が再建したもの
「南無三世諸仏」とある石塔は、寛政8年(1769)
小八賀郷大谷村荒川久治と雲竜寺存妙が
大原騒動刑死者の霊を慰めるために建立した。
その他お六地蔵釈尼悪照の墓(通称悪女の墓)
喚応是誰の墓もある。
石塔の並んでいるすぐ下手付近が刑場であった。
また旧越中街道が万人講の前を通っている。
南無妙法蓮華経のヒゲ題目。
水難除け…とあったが、おそらく刑場供養では
石碑の建立が出来なかったので
表向きの理由そうしたのではないか?と推測する。
桐生万人講は南無阿弥陀仏の念仏碑建立が
許可されなかった経緯もあるので。
南無三世諸佛
大原騒動の際の犠牲者を供養した石碑。
大原騒動とは、
大原氏が江戸時代、石高を高く見積もって
さらに商家とも癒着し私腹を肥やす。
不満を持った農民が商家を襲う暴動が
明和・安永・天明とあった。
大原彦四郎紹正は代官から郡代まで出世したが、
妻が抗議(であったとされる)の自殺。
本人も眼病を患い失明。熱病で死亡した。
息子、大原正純が郡代になるが体制は変わらず、
名主が江戸に何度も直訴。
幕府から巡検使が派遣され、不正や悪政が判明。
大原氏は八丈流罪となった。
敷地内には何基か石碑墓碑がある。
これは飛騨大飢饉の餓死者の霊を弔った供養碑。
喚応是誰の墓。
谷屋九兵衛が万人講に小屋を建て、
その小屋に僧是誰が住んで、街道を行く人に
茶の接待をした。
延宝3年の大飢饉で餓死した
沢山の人をここに埋めたので
万人抗と呼んだ。
餓死者供養塔、大原騒動傾斜慰霊碑、
水難除けの法華経塔、悪女の墓、
喚応是誰の無縫塔などがある。
刑場でもあり越中街道の一部が残る。
奉書写大乗妙典
写経した書を埋めて餓死者・刑死者の
供養の為建立されたものと思われる。
釈尼悪照の墓(通称悪女の墓)
隣には桐生史跡と書いたポリバケツが。
こちらがお六地蔵
放火で火あぶりの刑に処せられたお六という女性の
供養に建立された。