首切地蔵尊 由来
首切地蔵尊は今から約800年前平安時代の末、
平家が最後の砦と頼んだ宇治川の合戦にも敗れ、
攻め入る源氏の大軍の前になす術もなく
命からがら京都を逃れ、
一時神戸福原に據って再起を計ったが
これも敢えなく一の谷に逃れた。
中でも哀れを止めたのは、平家一門に連なる
公卿やその姫様達であった。
昨日までの栄華の夢破れ娑婆の無常を感じつつ
人目を恐れ、丹波路へと逃れて行った。
其頃、此処丹波東山には城主形瀬近江守の
築く鍋倉山城あり、近隣に勇名を馳せていた。
丹波路に迷い込んだ公卿や姫達はしばしの憩いを
求めて身を寄せたが、それも束の間、落人狩に
捕えられ山田の奥山深く樹木生茂り昼尚暗い
首切沢で処刑され敢えなく悲運の最期を遂げた。
伝え聞いた里人達が人の世のはかなさを嘆き
哀れみ碑を建て野花をたむけ後生を弔い祭ったのが
始まりで何時からか首切地蔵尊と呼ばれ
今に言い伝えられている。
こちらにも由来が。前の方は先ほどと同じだが
後半に以下の文があった。
昭和46年 本町に本部のある
円応教の修法で「尚土中に埋もれる三体の地蔵あり
共に祭れば霊感更に深からん」とのおさとしを受け
探し当て安置ねんごろに僧侶に依る栄光をしたが
霊験顕著で諸病平癒 入試合格 祈願に参詣する人
跡を絶たず今日に至る。
首切地蔵尊本堂。
先にお参りしていると管理されている方が出て来て
お茶を戴きました。
首切地蔵尊の地蔵。
全部に首はない。
よだれかけをかけられてなければ自然石と
思ってしまうかもしれないですね。
首切地蔵尊では水も湧いているようで、
汲みに来ている方が何人もいました。
処刑場跡地ですが、現在はパワースポットですね。