泣塔(宝篋印塔)

泣塔(宝篋印塔) 心霊スポット
泣塔(宝篋印塔)

泣塔(宝篋印塔)1
深沢多目的スポーツ広場の中にぽつんと
木々がうっそうとしげる場所がある。
ここが通称泣塔という塚がある場所である。
その場所はフェンスでぐるりと囲まれている。
これは、泣塔の撤去に死傷者が出たという話でだろうか…。
泣塔(宝篋印塔)2
外から木々の中にうっすらと石塔が確認できる。

泣塔の由来
この塔は、俗に「泣塔」といって夜毎に人のすすり泣く声が
聞こえるところから、この名が生まれたのではないか、と
言い伝えられております。
このあたりは洲崎(須崎)といい、その昔(今からおよそ
六百有余年前)新田義貞・左翼の将堀口三郎貞満か北條方の将
赤橋相模守守時(太平記には「盛時」)の軍勢を打破った
一戦の地として有名であります。
太平記には
「さる程に、同日の巳刻より合戦始まって、終日終夜、攻め戦う
寄手は大勢にて、入替え入替え攻め入りけるに、鎌倉方には防場
殺所なかりければ、打出て打出て戦いける。されば三方に作る
関の声 両陣に呼ぶ箭叫ひは、天に響き地を動かす かかるところに
赤橋相模守守時に洲崎に向かわれけるがこの陣の軍 剛くして
一日一夜のその間に六十五度まで切り合いたり。
されば数万騎ありつる朗徒も討たれ落ち失する程に僅かに残る
その勢は 三百騎にそなりにける。(中略)
さてこそ十八日の晩程に洲崎一番に敗れて義貞の官軍は
山内まで入りにける」時に元弘3年のことであります。
泣塔は、この戦争から約20年後に、これら戦没者の供養のために、
土着の民が建立したのではないかとと伝えられていますが、
(ちなみに塔の年号を見るに、文の下に和という文字らしく見える。
文和年間であれば、義貞の戦争から、約20年後に当る)
工場建設当時、この塔をとりこわす度に、数多くの死傷者が出たと
言われ、毎年12月1日を供養の日としております。
昭和26年12月1日
日本国有鉄道 大船工場
泣塔(宝篋印塔)3
泣塔を含む広大な土地は近年JRから鎌倉市が買い取った。
鎌倉市の許可を取り、敷地の中へ。
ぬかるんだ地面を避けながら入る。
泣塔が見えてきた。
泣塔(宝篋印塔)4
泣塔とその背後にはやぐらが確認できる。
泣塔(宝篋印塔)5
史跡 泣塔。
なぜ泣塔は泣いたのでしょう…?
やはりこの場所でないといけない
理由があったのでしょうか?
泣塔(宝篋印塔)6
真言宗 青蓮寺
泣塔は経緯はよくわからないものの、
一時こちらに安置された。
移されてから毎夜、石塔は泣き続けたという。
泣塔(宝篋印塔)7
泣塔の近くにある洲崎古戦場の石碑。
泣塔はこの洲崎古戦場の慰霊碑であるという言い伝えもある。

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