目洗い地蔵
目洗い地蔵
目洗地蔵尊の由来
今から1300年前、村上天皇の永保元年9月
丹後の国由良の庄、山椒太夫は、領主岩城判官政氏の妻、
宇和竹を佐渡の国雑太郡鹿ノ浦太夫平三郎と云う
塩焼き荘司に売り飛ばした。そのことを聞いた姉の
安寿の姫は、弟厨子王丸とともに母を尋ねて
はるばる佐渡に渡った。安寿悲しやほーやれほい厨子王
恋しやほーやれほい、と栗にむらがる雀の番をしていた母は、
近くに流れる中の川の水を飲んだり顔を洗ったり
しているうちに目が見えなくなった。その川の上流には
鉛の出る鉱山があったと云う。
「片辺鹿ノ浦中の川の水は飲むな毒が流れる日に三度」
とはやされていたと、それでも母は我が子恋しさに名前を
呼びながら雀の番をしていた。母にめぐり逢い
夜道をかけてのがれ、この地に至り延命地蔵尊に参詣し、
お祈りしながら湧き出る清水で喉をうるほし目を洗ったところ
我が子の姿が目に写り、親子だき合いお互い達者でいたから
逢えたんだなあと云うて喜びあったと、ここで
着ている物を着替えて先を急いだ。田馳高地に弘法大師の井戸があり
(弘法大師が錫杖をついて水を出したと云う古井戸)
その井戸で顔を映した。はっきり見える目が見えるようになったと
喜んだと、それからその井戸を姿見の井戸と云うようになった。
現在もその井戸は残って居ります。その後親子は小川の極楽寺へ
寄って泊めてもらったらしく…以後この部落を達者と云う。
この坂を着替え坂を「キヤ坂」と云い、この地蔵尊を目洗地蔵尊とも
安寿地蔵尊とも呼ぶようになったと云う。
看板のあった場所から50mほど坂を上がると見えてきました。
こちらは安寿地蔵堂というようです。
地蔵堂の裏手、ここに水が湧き出している場所がありました。
祠の場所に地蔵が多数安置されています。
割合に小さい地蔵です。
やはり目の病にご利益があるそうです。