新発田市の中曽根のゴミ捨て場のすぐそばに
「史跡 なみだ橋跡」という木製の看板がある。
いまでこそないが、ここは川が流れており、
橋が架かっていた。
そして新発田市の義民、大竹与茂七は処刑場に
連れて行かれる際、領民とここで涙ながらに別れた。
しばらく進むと地蔵堂がある。
名主 与茂七鎮魂の地。
大竹与茂七は江戸時代の名主で、
大雨の際に川の堤防が決壊、藩の許しを得ずに
藩有林を伐採して、被害を最小限に食い止めた。
後にこの件はやむを得ないと無罪になったが、
この事で英雄視されたことを妬んだ庄屋や名主から
借金や未納年貢の嫌疑をかけられ、奉行所で裁判の結果、
大竹与茂七は有罪。
お白洲の場ですべての歯を抜かれ、処刑場で斬首された。
奉行所は庄屋から買収されていたという。
与茂七は斬首の際に「末代まで祟る」と言ったという。
その後新発田市の一帯は大火事に見舞われ、
一軒のみ大火から免れた。
その家は与茂七が処刑場に連れて行かれる際に
わらじを差し出した家だったという。
その後祟りを恐れた周辺住民などから神社や墓碑が建立。
異例ではあるが奉行所も与茂七の冤罪を認めたという。
与茂七はここで処刑された、とあるが…はたして?
隣の地蔵堂には身代わり地蔵が安置されている。
江戸時代に幼子が殿様の行列に入ってしまい、
無礼打ちされるところをこのお地蔵様の後ろに隠れて
助かったことに由来する。
さらに進むと「船入 念佛塚」という場所がある。
だいたい「涙橋」→「与茂七鎮魂の地」→「船入念仏塚」は
道をまっすぐ行った感じの場所関係である。
一目でここの奇妙さに気がつく。
商業施設の駐車場内にぽつんとある。
通常であれば移動させられていてもおかしくないのだが…。
ここが中曽根処刑場跡であるという。
中には大小の地蔵堂が二つ。
小さな地蔵堂の中には自然石の石碑が。
石碑に見えるが、どうも首のない地蔵の胴体に見える。
首切り地蔵といったところであろう。
大きな地蔵堂には地蔵と古い石仏等があった。
こちらも首切り地蔵であろう。
地蔵そばの石仏や石碑。
地蔵や墓碑にも見えなくはない。
地図で見る限り、この辺りは過去川が流れていても
おかしくはないようである。
やはり処刑場とみなして間違いなさそうである。