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慈恩の滝の由来
今からおよそ千数百年の昔、この滝壷の中に大蛇が住んでいました。
或る年の麦の実る頃、夜中にこの大蛇が滝壷より這い出して
麦畑の中でのたうちまわり農民の汗による麦を荒してしまい
わづか一夜で近郷の麦畑はほとんど全滅に近い被害を受け
その年の秋の実りの田もこの大蛇に荒され
其の後数年間、田畑を荒され続けた。
このため農民はホトホトこまり八方手をつくし何とか大蛇を鎮めんものと、
或るときは、加持祈祷に、またあるときは、滝壷に竹綱を張るなどしたがその甲斐もなく
大蛇に荒され農民は食べるものもなく困窮の果て、
先祖より受けついだ田畑を捨て、家を捨てる者が続出し
この地域をはなれて行ったのである。
こんな年の・・・・夏の夕暮れどき、地域を通りかかった
旅僧がこのありさまを聞き、及ばづながら経の功力により大蛇を鎮めて見ようと、
その夜折から登る月光の下滝しぶきのかかるあたりに座して一心に読経を続けておりますと、
やがて急に滝壷に逆渦巻が起り、波の中から凄まじい形相の大蛇が姿を現したのである。
これを見た旅僧はそのような浅ましい姿では経を聞くことは出来まい。
・・・「心をやわらげ、姿を変えて現われよ」と、さとした。
すると大蛇は、ザブンと水中に身を沈め、しばらくして
こんどは頭だけ大きく胴体は筆の軸位に痩せ細り長さは(7m)
あまり見るもあわれな姿で水の上に現れた。
旅僧は大蛇に向い法を説きながら、「何故に田畑を荒すのか」と問いただすと、
大蛇は頭を胴の方に向けて曲げ舌の先で体中を舐め始めたので、旅僧は大蛇に近づき、
よく見ると、鱗の間に全身虫が寄生しているのを発見した旅僧はこの大蛇をあわれに思い、
その胴体の上を経文で撫でさすると、大蛇は目を細め旅僧のなすまま静かにしていて、病気もよくなり
その後は一度も田畑を荒すことなく稲や麦も実り農民の喜びは大変なものであった。
農民はこの旅僧のために一つの寺を建立し慈恩寺と名付け寄進した。
しかし慈恩寺は戦国の争乱で大分府内の領主大友宗麟の軍により滅失したのである。
天瀬町
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よく見ると滝は奥にもあります。
なんと滝の裏側に回る事が出来ます。
下流にあった河童のモニュメント(後ろが慈恩の滝)
夜はライトアップされたりもします。