浄明寺川原処刑場跡
浄明寺川原は以前は川沿いの細い路があるだけで、
梅雨どきは少しの増水でも通れない川原で、江戸時代
初期ごろから明治の初め頃まで、刑場として使用されたと云う。
有名なのが、減税と扶食米を江戸幕府へ直訴して。
天領日田管轄四カ国十一郡に亘り二百六ヵ村民を救った
義民、穴井六郎右衛門・二男要助・組頭飯田惣次、
延享三年(1746)12月28日午後6時頃、
3名は此地で刑場の露と消えた。
他に明治3年(1870)日田県の百姓一揆では5名の処刑があった。(竹槍騒動)
お堂内に地蔵菩薩・三界万霊塔を安置、
近所の方達によって香花が絶えることなく継がれている。
記
直訴状に岡田代官の更迭を求めた。
お堂前に供養塔の浄土三部妙典一字一石塔がある。
お堂の西側にある四角い石、
中に穴があるのは処刑をするときの磔(はりつけ)台石。
馬原地蔵堂内部。
こちらが嗚呼義民終焉之地の碑。
雪の中の調査となった。
周辺には古いお墓が並ぶ。
文字はかすれて解読できないものがほとんど。
雪が激しさを増す。
そしてこれが案内板にもあったはりつけの台座
東京の鈴ヶ森処刑場跡にもあるが、こちらの方が大きい。
磔(はりつけ)とはこの中央の穴に角材を入れ、その角材に
罪人を縛りつけ、下から槍で刺す処刑方法の事である。
この磔の台座もたくさんの血を吸ったに違いない…
※磔のイメージ
浄土三部妙典一字一石塔