小手指ヶ原古戦場
小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて
しばしば合戦が展開されたところです。
当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から
藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。
背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも
位置していたため、古来戦場になることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)
上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする
新田義貞の鎌倉攻めがあります。
同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため
新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した
新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。
太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、
進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、
緒戦となった小手指ヶ原で三十余回も打ち合いますが、
勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は
久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引き返しました。
翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、
幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。
その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、
結局21日にが鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、
5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し
鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、
源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、
源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
小手指ヶ原古戦場の碑
小手指ヶ原古戦場の碑の後ろにある小高い丘
入り口にあった石碑
塚を荒らさないで
丘の階段を上がります。
これが新田義貞が白旗を掲げたという白旗塚
別に負けたという意味の白旗でなく、
かつての源平合戦の頃には源氏は白旗、平家は赤旗でした。
心霊スポットというよりは史跡だったような感じです。
お決まりの落ち武者が出るという噂はあるようですが。
それほど不気味な感じもなく、
ましてや白旗塚は旗を掲げた場所という塚で変ないわれもないかと思います。
●小手指ヶ原なんですが、以前私の彼が昔その近くのわき道に
原付に4ケツで走っていたらしいのです。(違反です)
前々から落武者の霊が出ると聞いていたらしいのですが
そんな事は気にもせず、飛ばしていたらしいのです。
そしたら、顔に何かついたらしいのです。
最初は『あぁ、蜘蛛の巣か。』と思っていたのですが、
あとから、近くのコンビニに寄ったとき、服や顔や髪に
長い白髪がついていたらしいんです。
彼の友達にも、ついていたらしいです。