堀川城址
日本中が戦乱に明け暮れていた室町時代の
終わりころ、この地方は今川氏の勢力下にあった。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、
義元が戦死した後、土地の人々はここに城砦を
築き地名にちなんで堀川城と名づけ、刑部(細江町中川)
にも刑部城を築き、徳川家康の遠州侵攻に備えた。
永禄11年(1568)刑部城を落した家康は、翌12年3月27日に
3000の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も
戦える者およそ2000人は、すべて城に立て籠もって
抵抗したが、みるまに落城した。この戦いに
加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には
「男女ともなで切りにぞしたりける」とある。
残った人々も徹底的に捕えられ9月9日
ことごとく首を打たれた。3月27日の戦いで
およそ1000人、9月9日に700人余、当時の住民の
半数以上の犠牲者を出したと伝えられる。
堀川城址
現在は草原になっている。
「堀川城址 古戦場」の石碑があった。
先ほどの堀川城址の横に…
すこしこんもりとした場所がある。
ここが堀川城で亡くなった人々の首塚と言われている。
首塚の中をかき分けると石碑があった。
首塚の供養碑であろう。
背後には卒塔婆もあった。