東京都新島村にある海軍墓地。
現在は小高い丘の上にある。
看板より
平和を誓う丘(海軍墓地)
大戦が熾烈化した昭和20年2月、度重なる爆撃で食料が尽き餓死寸前の
絶海の孤島、硫黄島(新島出身者も3名戦死)で、食料や弾薬を持つ友軍の
陸海将兵を支援するために、第16号輸送艦(1.800トン、速力22ノット)は
横須賀を出航し決死の航海に挑んだ。
前進基地の小笠原父島を出航して、明日は硫黄島・千鳥が浜に突入しようとした
前夜(2月14日)、16号艦に敵大艦隊が北上中につき、急ぎ
横須賀に帰艦すべしの命令。
16日午後、三宅島を過ぎた頃、米艦載機約200機と運命の遭遇、
突如雲間にグラマンの大群が7機編隊で16号艦に急降下して
機銃弾の総攻撃を受ける。16号艦も果敢に抗戦し、7機撃墜、3機撃破したが、
約40分間の戦闘で、砲衛科員に死傷者続出。新島前浜沖に到着したときには、
戦死者23名、負傷者71名。戦死者の中には、艦を守るべく、上甲板で
不敵な砲撃を続けた16歳の若い命もあった。
弱い西風が吹く寒中の黒根の砂浜に、毛布に包まれた無言の
戦死者達が上陸したのが夜10時。若くして国に殉じ、艦内に散った英雄達は、
警防団を主とした新島住民と、駐屯中の陸軍将兵らの手によって、
この丘に手厚く葬られた。そして数年後に、慟哭した家族の待つ
故郷に帰還した。
昭和20年晩秋、強制疎開から島民が帰島して、この島に再び平和が戻った。
それから半世紀、何世代かのたゆまぬ努力によって、現代の新島村を築いたので
ある。その激動の20世紀も終わろうとしているが、新島住民は、
この丘から21世紀に向かって、永遠の平和を誓うのである。
2000年5月 新島村
戦死者之碑
新島の墓地は砂浜の砂を周辺にまいてあり、
すごくきれいに見える。
新島炉ばなし/武田幸有著によると、
昭和20年夏。太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結も間近いある日。
南の戦場から一隻の輸送船がたどりついた。船体には戦場での
生々しい傷あとを残し、船足も遅く、文字どおり「たどりついた」のである。
乗っているのはすべて傷病兵。それが船室に収容しきれず、甲板にまで
横たわっていた。おりしも、上空に飛来して来たアメリカ空軍のグラマン数機が
これを発見し、機銃掃射をあびせかけた。
船には抵抗すべき武器もなく、ましてや傷病兵である。逃げるに逃げられず、
たちまち阿鼻叫喚の地獄となり、数十人の将兵が無念の涙をのんでたおれた。
やがて敵機は去った。
島の人々がかけつけたとき、流れた血が甲板から滴り落ち、海を
赤く染めていた。甲板は地獄そのもの。足の踏み場もないありさまで、
思わず顔をそむけたという。
船からの依頼で死体をおろし、傷ついた者も手当のため上陸した。
好むと好まざるとにかかわらず、戦場にかりだされ、
傷つき、疲れて、やっと祖国にたどりつき、夢にまでえがいた
本土を目の前にして、無抵抗のまま死んでいった将兵の心は、
いかばかりであったろうか。
人々は、数十の死体を手厚く葬った。
そしてその墓を「海軍墓地」とよぶようになった。
さらにこの本には「真昼の幽霊」という項目がある。
内容としては次のような感じの話である。
戦後に誰も手入れしていなかった海軍墓地の草むしりをしていた
親子が、真昼にも関わらず、ゆらゆらと現れた海軍兵の幽霊に
遭遇した話を載せている。
新島の中でも幽霊が出る場所であるという認識はあったようだ。
※書籍により16号艦の対応が違うようである…。(反撃したか無抵抗か)
石碑の裏側には昭和46年2月16日とある。
地元の人に海軍墓地の事を聞いてみると、
戦後に遺族が遺骨を連れ帰り、現在の海軍墓地には
記念碑のようなものしか残っていない事。
近づかないのではなく、島の歴史としては風化してしまっているという事。
海軍兵のほとんどが函館出身者であった事。
海軍墓地を訪れた感想としては誰も近づいていないというよりは、
むしろ信心深い新島島民に手厚く供養されている印象を受けた。
戦後函館の方から遠く新島を訪れた遺族の気持ちを思うといたたまれない。
ラッパと行進の足音が聞こえたという目撃情報が
かつて週刊誌であったようだが、海軍であろうか?
むしろ戦時中に新島には一時5000人~6000人の陸軍が駐留しており、
新島本土も爆撃を受けたらしい。
(新島島民のうち女性・子供・高齢者は山形に強制疎開)
海軍よりは陸軍の幽霊であったのではないかと思われる。
有名になったのは稲川淳二氏のDVDからのようである。