東京都新宿区
成覚寺
ここは江戸時代の飯盛女のなげこみ寺であった。
飯盛女とは江戸時代に街道の宿屋で給仕や雑用に使われ、
同時に売春も行った。
正式には売春の権利を持たず、遊女より低級とされた。
飯盛女たちが死ぬと着物や飾りを剥ぎ取られ、米俵にくるんで
成覚寺の墓地に投げ込まれた。
その数3000人以上とも伝えられている。
夜の鬼火(ひとだま)は寺の名物になっていたとか。
子供合埋碑
江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を
弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、
惣墓と呼ばれた共同墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、
抱えられる時の契約は年奉公で年季中に死ぬと
哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。
もともと墓地の最奥にあったが昭和31年の土地区画整理に
際し現在地に移設された。
宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の
存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。
隣に白糸塚がある。
歌舞伎であたった演目のひとつで鈴木主水という侍と
内藤新宿の遊女・白糸が心中したという伝説の塚とのこと。
旭地蔵
三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を
持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に
18人の戒名が記されている。
これらの人々は寛政12年(1800)から文化10年
(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、
そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで
心中した遊女と客達であると思われる。
これらの人々を供養するため寛政12年7月に
宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた
玉川上水の北岸に建立した。
別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
明治12年(1879)7月道路拡張に伴いここに移設された。
宿場町新宿が生みだした悲しい男女の結末と
新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
夜泣き地蔵とも呼ばれ、
夜泣きのひどい赤ん坊がいる母親が参詣すると
ぴたりと夜泣きが止むという。