天宥法印の墓
天宥法印は出羽国(今の山形県)羽黒山の高僧で寛文8年(1668)、
公事出入の罪で流罪になっており、「新島流人帳」に記された
最初の流刑者である。羽黒山50代別当執行寶前院天宥は、
天台宗一宗への統一、職別の改革活動の促進。また、本堂の造営、
参道の改修、植林開田、治水等一山の興隆を願って大改革を断行した。
しかし、反対派衆徒や酒井出羽守と争うことになり法印の師で
当時、黒衣の宰相といわれた上野寛永寺の天海僧正が遷化した後、
75歳の高齢で流罪となった。天宥法印は地役人前田家にも
出入りで許されるなど、流人としては破格の扱いを受けたが、
延宝2年(1674)81歳をもって、当地で長逝した。
護り刀をはじめ自作の書画等、多くの遺品が村内に現在している。
この墓は昭和14年に東京都教育委員会の「旧跡」の指定を受けた。
昭和59年羽黒山中興の祖、天宥別当の縁によって、羽黒町と新島村は
友好盟約を結び、心温まる交流を行っている。
こちらが天宥法印の墓。
もともとは流人墓地にあったものをこちらに改葬した。
隣にも墓石が。
その隣には祠がある。
天宥法印墓
天宥法印は天台宗の高僧、天海僧正の弟子で、
羽黒山の中興の祖として高名です。
「新島流人帳」などによれば寛文8年(1668)
天領との領地争いにより新島に流されたとされます。
延宝2年(1674)に病死、小さな自然石の流人墓に
埋葬されました。現在の墓石は、その後改葬されたものです。
実は天宥法印が新島に流されたのがわかったのは
昭和に入ってからである。
江戸時代の記録によれば大島に流したとあったらしく、
昭和に入って天宥法印の墓を捜しに来た天台宗のお坊さんは
かなり苦労して発見したとの事。
新島内にはかなりの書画など掛け軸が残っていたようだが、
とある家などはあまりたくさんあったので、昭和に入ってくすぐらいに
燃やしてしまったという…。
もったいない話だが、天宥法印の話はその頃には新島の人も
ほとんど知られていなかった。
天宥法印は、新島流人第一号であると共に、
新島の文化に大きく寄与した人物の一人である。