秋葉山公園

秋葉山公園 心霊スポット
秋葉山公園

秋葉山公園
秋葉山公園。
秋葉山隧道をくぐり進むと登山口が見えてきます。
秋葉山公園2
軽く登山のような感じ。
途中あった看板
危険
ハビ等が出没するおそれがあるので注意されたし。
ハビ…はび?ヘビ?
秋葉山公園3
途中山道にあった石碑
「本願寺所」
秋葉山公園4
秋葉山梅園の石碑。
ここから先が秋葉山公園のようです。
秋葉山公園5
開けた場所に。
手前の建物はトイレで奥には遊具があり、
多数の親子が遊んでいます。
秋葉山公園6
開けた公園の場所にぽつんと小高い丘が。
看板があります。

弥勒寺山
かつて、この地に弥勒寺という寺院があったため、
弥勒寺山と呼ぶ。
天文19年(1550)に黒江(海南市)から移転した
本願寺の紀州御坊は
永禄6年(1563)に鷺森に移転するまで、この地にあった。
このため御坊山とも呼ぶ。天正5年(1577)に
織田信長が紀州雑賀を攻めた時、
雑賀衆はこの山上に城を構えて防戦したという伝えがある。
秋葉山公園7
丘の上には石碑があります。

秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡
織田信長の一代記(信長公記)によると、元亀元年(1570)以来、
大坂本願寺を支え続けた雑賀衆は、信長軍の来攻を免れなかった。
天正5年(1577)2月22日、信長は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重らの
勇将を引き連れ、雑賀衆の立て籠もる秋葉山を攻めた。
その山は、海抜73メートルの小山であるが、三方を山々に囲まれ、
唯一開けた東側には水量豊かな和歌川が流れる要害であった。
雑賀衆は、岸に策をめぐらし、水中に桶壷を埋めて敵に備えた。
寄せ手の先陣、堀秀政の騎馬隊は、勢いよく河に乗り入れたが、
足を取られて身動きならず、待ち受けた鉄砲隊に狙い撃ちされ、
多くの武者を失って退却した。その後の合戦は必ずしも雑賀衆に
有利ではなかったが、京都の政情不安もあり、信長は3月21日に
雑賀の陣を引き払い安土城に帰った。
これを聞いた雑賀衆は、合戦の矢玉に傷ついた足の痛みも忘れて
喜び踊ったのが、雑賀踊りの起源だという。今も紀州東照宮の
和歌祭の演目として伝えられている。
秋葉山公園8
顕如上人卓錫所(たくしゃくしょ)の碑
緑色片岩の高さ約3メートルの碑。
篆書体で「顕如上人卓錫所」と刻む。
顕如上人は本願寺第11世門主、錫は僧侶の持つ錫杖、
卓(卓の異体字)は突き立てるの意で、
掃じて顕如がこの地に来たり、足跡を印したことを意味するであろう。
顕如は元亀元年(1570)以来、織田信長を相手に
11年に及ぶ本願寺合戦を戦った人物であるが、
天正8年(1580)4月、正親町天皇の勅命和議をうけ入れ、
大坂本願寺を退去し、寺基を紀州の鷺森(和歌山市)に移し、
以後3年間当地に滞在した。
『大谷本願寺通記』によると、永禄6年(1563)2月、
顕如は和泉を経て紀州に来たり、この山にあった御坊を
鷺森に移したとあり、紀州御坊の鷺森移転に当って
彼がこの地を訪れたことは確かである。
この碑は明治24年(1891)に顕如の300回忌に当り、
11年にわたる本願寺合戦を平和裡に収拾し、
教団の安泰をはかった彼の功績をたたえて
当地の門徒たちが建立したものであろう。


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